論語と算盤を読み解く
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EPISODE· 2026年8月9日

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opening

ちょっと蒸し暑い夜が続いてますね。こういう夜ってなんか、判断力が落ちる気がして、えーと、なんでだろうと思って考えていたんですけど、たぶん体が先に白旗を上げてるんですよね。頭より先に。で、そういう状態のときって、人間の判断って意外と感情に引っ張られやすいんだなとぼくは思っていて、まあそれが今夜の話にもちょっと関係してくる。今夜は、渋沢栄一の『論語と算盤』、『常識と習慣』という章を取り上げます。渋沢がここで「常識」と呼んでいるのは、世間の空気とか知識とかじゃなくて、判断の基軸になる内なる規範のことなんですよね。その章から今夜読み解くのは、「悪んで其の美を知れ」という言葉。これをゆっくり読んでいきます。

reading

まず原文に書いてあることをそのまま置きます。渋沢はこの章で、自分が「誤解されやすい」と自覚していた、と書いている。何を誤解されていたか。渋沢は「道理に合う案件であれば、相手が誰であっても援助しようとする」、彼自身が「門戸開放主義」と呼んでいた姿勢を実践していたわけです。で、その結果として、援助の要求が月に何十通も届いていた、と原文に出てくる。これ、すごく大事なことだとぼくは思っていて、渋沢は「善意の話をしている」のではなくて、「善意を運用することのコストを現実として引き受けていた」という話をしているんですよね。観念じゃなくて、実務として。[pause] で、タイトルの「悪んで其の美を知れ」に戻ると、渋沢の言い方は「悪人でも善に導いてやりたい」であって、「悪人も実は善人だ」とは言っていない。ここは読み飛ばすと全体の意味が変わるので、ちょっと丁寧に置きたいんですけど、悪を悪として認識した上で、なお可能性を見て関わる、という構造になっている。悪を見ないようにすることとは、まったく別の動作です。それ、本当ですか、というのは、「あの人にも良いところがある」と言うとき、これ、渋沢の意味で使っていますか、という問いでもある。あなたも職場や組織の中で一度はこういう場面を見たことがあるんじゃないかと思うんですけど、問題のある行動を繰り返している人に対して「あの人にも良いところはあるから」と言って、行動への指摘をずっと先送りにしていくパターン、これが渋沢の言っていることの誤用というか骨抜きのしかたとして、一番よく起きるやつだとぼくは見ています。渋沢の原文は「悪を見ないようにする」ではないので、行為の評価を曖昧にしたまま「あの人を見限っていない」という話に仕立てるのは、言葉の使い方として別の話になっている。[pause] もう少し現代に引き寄せると、採用でも、取引でも、支援の文脈でも、一度でも問題を起こした人や組織との関係を一律に打ち切るという運用が、リスク管理の名目で広がっている場面をぼくは少なくないと感じていて、その判断が合理的に見えるケースもあるんですよ、実際に。ただ「ゼロか百か」の評価基準って、組織が判断のコストを下げたいときに都合よく使われることがある、というのがぼくの見立てです。で、渋沢はそこで何をしていたかというと、援助コストを自分で引き受けながら関わる選択をしていた。月に何十通もの要求を受け取りながら、一律には断らない、という運用を実際にやっていた。コストを回避するための原則と、可能性を信じるための原則は、外から見ると同じ「一貫した姿勢」に見えても、中身はまったく逆です。行為への評価を保留することと、人間への可能性を閉じないことは、別の動作として分けて置く必要がある、というのがこの章をぼくが読んで思うことです。

closing

まあ今夜の話をひとことでまとめるとすれば、「あの人にも良いところがある」という言葉は、使う人によって、行為への評価を曖昧にするための言葉にもなるし、人間の可能性を閉じないための言葉にもなる、その両方に使えてしまう、ということです。で、あなたが今その言葉を使うとき、それはどちらですか。行為を曖昧にしているのか、それとも人間の可能性を閉じていないのか。次回も同じ『常識と習慣』章から、渋沢が「常識」という言葉に込めた判断軸を、別の角度から読んでいきます。今夜はここまでです。番組「論語と算盤を読み解く」でした。

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