論語と算盤を読み解く
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EPISODE· 2026年9月13日

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どうもこんにちは、「論語と算盤を読み解く」のじかんです。えーとね、今朝ちょっと散歩してたんですけど、近所のコーヒー屋さんが改装してて、なんかメニューがガラッと変わってたんですよ。で、前のメニューをぼくは気に入ってたので、まあ残念だなと思いつつ、でも店の人は別に「ファンを大切に」とは言ってなかったわけで、勝手にぼくが期待してただけだな、みたいな。そういうどうでもいい話から始まりましたけど、今日は『人格と修養』という章を扱います。「修養」って言葉がタイトルに入ってるんですが、それが具体的に何を指しているかは、実際に読んでみないとわからないんですよね。で、今日の主役は徳川家康——渋沢栄一が『東照公』と呼ぶその人と、そこに渋沢がどんな視点を重ねているか、というところを一緒に見ていきます。

reading

まず原文の話から整理しますけど、渋沢が描く家康像ってのは、神道・仏教・儒教の三つ全部に深く関わった人なんですね。で、そのなかで朱子学を道徳教育の軸に据えて、林羅山を儒家として登用している。これは単に「宗教に寛容だった」という話じゃなくて、学問の体系を統治の道具として意識的に選んでいた、という話だとぼくは読んでいます。で、あの有名な遺訓があるじゃないですか、「人の一生は重荷を負ふて遠き道を行くが如し」っていう。渋沢はここで、これが論語の曾子の言葉と構造的に対応していると指摘するわけです。曾子が「士は弘毅でなければならない、任重くして道遠し」と言ったその骨格が、家康の遺訓にそのまま生きている、という見立て。さらに渋沢が取り上げるのが、南光坊天海への帰依で、家康が駿河に隠居した後、九十日のあいだに六七十回の法談を聴いたという記述が原文にあります。九十日で六七十回ですよ。単純に考えれば、ほぼ毎日聴いてる計算になる。権力の頂点を退いた人間が、そのペースで他者の話を聴き続けた。 [pause] ぼくがここで引っかかったのは、渋沢がこれを「家康は勉強熱心でした」という美談として紹介していないことなんですよ。そうじゃなくて、「学びを一時期で完結させなかった」という継続の構造に、渋沢はフォーカスしている。これ、読み方によってはぼくの読み込みすぎかもしれないんですが、渋沢自身が「論語と経済は切り離せない」として生涯動いた人だから、家康の姿が「学びと実践の往復が終わらない」モデルとして映ったんじゃないか——まあこれは推測ですけどね。そして、現代の話をすると。あなたの周りで、昇進した途端に研修や勉強の場から姿を消していく人って、一定数いませんか。「教わる立場」から「教える立場」に切り替わった瞬間、学習をやめる自己定義への移行、とでも言えばいいか。それ自体は自然な変化だとは思うんですよ。ただ家康の隠居後の話と並べると、「立場が変わったから学ぶのをやめた」のか、「立場が変わっても学習者であり続けることを選んだ」のか、という選択として見えてくる。で、「重荷を負ひて遠き道を行くが如し」という言葉の話に戻ると、これが現代で引用されるとき、大体「苦労を厭わず頑張れ」という精神論の文脈で使われるじゃないですか。名言カレンダーに載ってたり、朝礼のスピーチで出てきたり。でもね、渋沢が言いたいのはその逆に近いとぼくは思っていて、「苦労に耐えた」という話ではなく、「地位が上がった後も学習をやめなかった」という継続性の話をしている。名言の言葉だけ借りて、その名言を生んだ行動の構造を抜くと、精神論の飾りになる。それ、本当ですか——修養は若いうちにやるものだ、という前提は、どこから来ているのか。あなた自身はそれをどこかで信じていないか、という話です。 [pause] 渋沢が家康を引き合いに出すとき、政治権力の話はほとんどしていない。天下統一のことも、関ヶ原のことも、そこにはほぼ触れない。ひたすら「学び続けた」という角度だけを取り出している。これは意図的だと思うんですよね。渋沢が家康に見たかったのは、権力者の偉業じゃなくて、「完成したはずの人間が死ぬまで学習者であり続けた」という態度選択なんじゃないか。現代で「修養」という言葉が出てくると、どうしても若手向けの研修とか、自己啓発本とか、そういう文脈に押し込められがちですよね。でも渋沢が取り上げているのは、七十代以降の家康の話で、しかも「隠居後に学びの頻度が落ちなかった」という事実の話。その取り上げ方に、渋沢のメッセージは相当明確に出ていると思っています。

closing

今日のテーマを最後にひとつの問いにまとめると、あなたが「もう学ぶ必要はない」と感じた瞬間があったとして、それはどんな状況だったか——そしてそれは本当に正しかったか。試験が終わった瞬間なのか、ある役職につた瞬間なのか、それとも誰かに「あなたはもう十分できる」と言われた瞬間なのか。修養を若い時期の話として括り出している自分がいないか、ちょっとだけ振り返る余地を置いておきます。次回は『人格と修養』の章から、別の訓話を取り上げる予定です。中身はあえて言いません——来週聴いてみてください。「論語と算盤を読み解く」でした。

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