
#28 城下町の商いは今も息づく?
AIRWAVE GYODA
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看板とか建物の古さもそうなんですけど、あの通りって昔お城の外堀のすぐそばだったって、大人になってから知って「え、そういうことか」ってなりました。
城下町の道って、堀や郭の形がそのまま近代の区画に「なぞられた」みたいに残ることが多いから、行田の通りもそういう理由で妙に曲がってたり幅が変わったりしてるのかもって思ってて——宵はあの辺の道の形、お城の設計と繋がってると感じる?
子どもの頃、あの角のところで急に道が細くなるのが不思議で、でも今思うと堀の縁をそのままなぞってたのかもしれなくて——商店が集まってる場所も、郭の際に人が集まった名残なのかなって。
郭の際に人が集まる——それって、城下町の「設計」がそのまま商業地の骨格になったってことで、行田の中心部は偶然じゃなく構造として今の形になってるのかもしれない。そう考えると、その町のなかに忍沼みたいな水辺があったことって、商いにとってどんな意味があったんだろう。
時代劇とかで川沿いに荷物が届いて商人が受け取るシーンあるじゃないですか——忍沼も昔は水路で荷が入ってきてたって考えると、あの静かな水辺が「町の入口」だったんだなって、急に全部つながった気がして。
水が来るところに蔵と問屋が集まるとしたら、今の中心部のどこかに「荷を受けた場所」の痕跡が地割りとして残ってる可能性があって——今回の展示、忍沼まわりの暮らしも取り上げてるらしいから、そういう手がかりが出てくるかもしれないと思ってるんだけど、宵は気になってる?
蔵っぽい建物、確かに忍沼からそんなに遠くないところに何軒かあって、子どもの頃そこだけ空気が違う感じがして近づきづらかったんですよね。
子どもがそう感じるってことは、建物の密度とか素材とか、何かが周囲と明確に違ったんだと思う——今回の展示で蔵の配置と水路の跡が重なれば、あの「空気の違い」に構造的な理由がついてくるかもしれなくて、ぼくが気になるのはその場所が明治以降も残ったのって、誰かが意図的に守ったのか、それとも自然にそうなったのか——
守ろうとしなくても、あの近づきづらさ自体が人を遠ざけて、結果的に壊されずに残ったのかもって——今回の展示で明治から昭和にかけて町並みがどう変わったか、「演出」みたいな話が出てくるなら絶対気になります。
「演出」って言ったとき、ぼくは「守る」より「売る」に近い動機があったんじゃないかと思っていて——今回の展示テーマが『商空間と伝統の民俗学』なのも、伝統の雰囲気が商売の看板として意図的に使われてきた、そういう読み方を含んでるのかもしれない。
子どもの頃、あの通りの薬屋さんの木の看板、わざと古くしてるのかなって思ったことあったんですけど——「わざと」じゃなくて「ずっとそのまま使い続けた」のも、結果的に「そう見せてた」になってたのかもしれない。
意図がなかったから「本物」で、だからこそ後から価値がついて商品になる——そういう逆説的な流れは案外どこの町でも起きてると思うんだけど、今回の展示は図録(エー四判四十八ページ・六百円)もあって、明治から昭和の商空間の変化を手元で追えるから、あの蔵や看板の話と重ねて読むと面白そう。
図録で予習してから解説会でまち歩きできるなら、あの蔵の前で「これが荷の受け口だったのかも」って確かめられる日が来るかもしれないと思うと、ちょっと待ち遠しくなってきました。
まち歩きも解説会も講演会も実際にあって、缶バッジまでもらえるらしいから行く理由には困らなくて——会期は七月四日から八月三十日、毎日午前九時から午後四時半まで開いてて、夏休み中の八日から十六日は休館なしだから、蔵の前に立てる日、意外とたくさんあるよ。
缶バッジまであるんですね、そこまで用意してくれてるの——図録片手に蔵の前に立って、解説聞きながら「ここが荷の受け口か」ってなる日、夏の間に絶対つくりたいです。
七月四日から八月三十日まで、夏休み期間は休まず開いてるから時間はある——蔵の前に立ったとき、「荷の受け口」以外に何か確かめたいことって、もう浮かんでる?
商店の向きとか間口の広さって、どこから人が来てたかをそのまま示してると思うので——時代劇で城下の目抜き通りに面した店が武士と町人の両方に向けて開いてるシーン、あれが実際の地割りに残ってるなら確かめたいです。
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