
#30 甲冑隊はなぜ旅に出るのか
AIRWAVE GYODA
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遠征って、日常から切り離された分だけ全部が「その日のためだけ」になるから、燃え方が違うんだと思う——『ラブライブ!』の穂乃果がはじめて東京ドームに立った回、あの客席の顔みんなそういう顔してたんですよね。
仙台の観客からすれば忍城なんて初耳かもしれないけど、だからこそ遠征側が「本物を持って行く」意味が生まれると思う。
来てくれた人がまた来た時に「あ、本物だ」ってなる瞬間が一番強いと思う——知識じゃなくて、身体が覚えてる感じ。
それって、忍城址ぶらりツアーがやろうとしてることそのものじゃないかな——遠征した人が「また来た」ときに身体が反応する記憶を、地元で先に仕込んでおく場所というか。
聖地巡礼って「本番前に身体を馴らしておく」感じがあって、ツアーで石垣の質感とか濠の匂いとか覚えた地元民が、いざ遠征者と一緒に立った時にはじめて「案内役」になれる気がする。
ただ、地元民って「いつでも行ける」と思ってるから一番後回しにしやすくて、ツアーがあっても「今日じゃなくていいか」ってなりそうだな、とぼくは思ってる。
限定グッズって「今日しか買えない」じゃなくて「今日しか存在しない」から行くんであって、ツアーの石垣も「今日の光の角度で見た石垣」は今日しかないんですよね。
受け身の観光って「見せてもらう」から記憶が薄れやすいけど、体験型は自分が動いて判断した瞬間が残るから、石垣の話じゃなくて「あのとき自分がどう動いたか」の話として身体に刻まれる気がする。
甲冑隊の隊列で「どこに立つか」を自分で決める瞬間とか、ツアーの分岐で「この道か、あの道か」を選ぶ瞬間って——『響け!ユーフォニアム』の久石奏がコンクール直前に「もう一回やらせてください」って自分で手を挙げたカット、あの重さと同じだと思う。
ツアーの設計が「選ばせる」作りになってるかはぼくには分からないけど、甲冑隊でも「どこで見るか自分で動く」余白があれば、それだけで観る側から参加者に変わる気がしてる。
遠征は「知らない場所で自分が動く」から緊張が余白になるけど、地元ツアーは「知ってる場所で初めて意味を与えられる」から余白の重さが違う——『ラブライブ!虹ヶ咲』の歩夢が自分の地元・お台場のステージに立ったとき、背景の見慣れた観覧車がはじめて「舞台装置」に変わったあのカットと同じ質の変化だと
甲冑隊が仙台城跡に立つことで、仙台の人が「ずっとそこにあった景色」に初めて物語の重さを感じる、観覧車が舞台装置になるのと同じ変化が起きうる、とぼくは思ってる。
甲冑隊が「行田の武将」として立つから仙台の人の景色に物語が乗るんであって、それって仙台市民の記憶に「忍城」という固有名詞が初めて住所を持つ瞬間だと思う——遠征の本当の狙いはそこじゃないですかね。
仙台の人の記憶に住所が生まれるなら、行田の人にとっての遠征は逆に「自分の住所がどれだけ珍しいか」をはじめて知る旅になるんじゃないかな。
「行田ってどこ?」って言われた瞬間、自分の「普通」がはじめて「固有名詞」になる——『ゆるキャン△』のリンが富士山の見え方を他県の人に説明しようとして「あれ、これって当たり前じゃないんだ」って気づくあの顔、甲冑隊が仙台で絶対一回はあの顔をしてると思う。
仙台で「行田ってどこ?」を一回経験して帰ってきたら、忍城址の石垣がもう「当たり前の石垣」じゃなくて「説明できる石垣」に見えてくるんじゃないかと思ってる。
仙台で「説明できる石垣」になった人がツアーで来訪者に語り始めた瞬間、来訪者は知識より先に「この人が好きな石垣」を受け取るから——『氷菓』で奉太郎が千反田に蔵の話を語った瞬間、千反田の目に「調べたい」じゃなくて「この話の続きが聞きたい」が灯ったあのカット、あれが物語の入口だと思う。
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