
論語と算盤を読み解く
RIO
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どうも、論語と算盤を読み解く、始まります。えーと、今日ね、スタジオに来る前に駅の本屋で少し立ち読みしたんですよ。ビジネス書のコーナーで「40代からの学び直し」みたいな帯が並んでいて、まあそういう時代なんだなと思いながら眺めていた。で、その流れで今日の本題に入るんですけど、扱うのは『論語と算盤』の「立志と学問」という章です。渋沢がここで問題にしているのは、老いることそのものじゃない。精神が、身体よりも先に衰える、という現象なんですね。それがなぜ起きるのか、どうすれば防げるのか。本文を追いながら考えてみます。
まず本文の構造から確認しておくと、渋沢はいきなり自分の意見を言うんじゃなくて、メービー博士という外国人の観察を先に持ってくる。で、そのメービー博士が指摘したのが二つあって、ひとつは日本人が形式を過度に重視するということ、もうひとつは党派間の対立が感情的になりすぎるということ。渋沢は自分で断じるんじゃなく、外の視線を借りて語っている。これ、語り口としての選択だとぼくは思っていて、外側から見ると見えやすい構造というのがある、という前提でそうしているんじゃないかと読んでいる。 その上で渋沢は、当時あった「若者の時代だ」という青年偏重の言説に対して異議を唱えるんですね。で、ここで出てくるのが「文明の老人」という言葉です。渋沢の言い方を整理すると、身体が衰えても精神が衰弱しない状態、これが文明の老人だと。ここでの「文明」という言葉はね、装飾語じゃない。精神がちゃんと機能しているかどうかで文明的か否かが決まる、という実質を問う言葉として使っている、とぼくは読んでいる。で、その精神の老衰を防ぐ手段として渋沢が挙げるのが「生涯を通じた学問の継続」で、しかも「唯一の」という言い方をする。渋沢にしてはかなり強い断言で、それ自体が気になるんですよね。 [pause] で、ここが現代と照らすと面白くなってくるんですけど、「生涯学習」という言葉は今では広く普及していますよね。あなたも一度は聞いたことがあると思う。ただ実態として、それが「趣味・教養の継続」として消費されているケースが多い。カルチャースクールに通う、資格を取る、ビジネス書を読む——それ自体を否定するつもりはないんですけど、渋沢が言っていた「学問の継続」は、そういう話じゃないとぼくは思っていて。渋沢の文脈での学問というのは、社会や他者との関係の中で自分の判断を更新し続ける営みのことで、知識を蓄積することじゃない。 たとえばですよ、長年の経験を積んだ管理職や経営者が、「自分はこれで成果を出してきた」という過去の成功体験を正解として固定して、新しい情報が入ってきても判断を変えない、という状況は、あなたもどこかで見たことがあるんじゃないかと思う。それ、本当ですか——「学び続けている」と言いながら、判断が十年前から更新されていない、ということは、現場でけっこう起きていないか。渋沢ならたぶんそれを、身体より先に精神が老衰している状態と見るでしょうね。 [pause] で、もうひとつ面白いのが、メービー博士が指摘した「日本人の形式重視」の傾向と、現代で「生涯学習」が消費されている構造が、実はかなり似ているということで。資格・肩書・ルーティンという形式を整えることで、学んでいるという実質があるように見える。でも、その学びが実際の判断や行動の更新に繋がっていなければ、渋沢の言う精神老衰の予防にはなっていない可能性がある。形式が整った時点で満足して、実質が抜ける——これ、百年前に博士が観察したことと、構造的に同じ問題を引き継いでいる可能性がある。 それともう一点だけ。渋沢の青年偏重への反論の読み方なんですけど、彼は老年を擁護しているんじゃないとぼくは思っている。「老いても精神が機能している人間の存在価値」を主張しているのと同時に、逆から読めば、若くても精神が停止している状態を問題にしているとも読める。これは年齢の話じゃなくて、更新し続けるかどうかの話として渋沢は立てているんじゃないか。
えーと、まとめとして問いを置いておくと、渋沢の言う「学問の継続」を、あなた自身はどう定義するか。知識を入れることなのか、それとも判断を更新することなのか。あなたが今「生涯学習」という言葉を使っているとき、それは渋沢の言う意味に近いのか、それとも形式の話になっていないか——これ、ちょっと自分に問い返してみてほしいんですよね。次回は「論語と算盤」の中で渋沢が語る「常識と習慣」を取り上げます。今日は論語と算盤を読み解く、お聴きいただきありがとうございました。
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