
論語と算盤を読み解く
RIO
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えーと、今日ね、台本を読み返していたら「蟹穴主義」という文字が目に入って、まあしばらくそこで止まってしまいました。蟹穴。字面だけ見ると、なんか穴の中に引きこもる話みたいじゃないですか。でも渋沢栄一がこれを処世の美徳として語っているんですよね。今日扱うのは『論語と算盤』の中の「処世と信条」という章で、ここに渋沢の日常の生き方に対する考え方が割とまとまって書いてある。「分を守る」ってことが、後ろ向きな諦めなのか、それとも全然違う意味を持っているのか。その辺をぼくなりに読み解いていきます。
で、まず渋沢が言っていることの骨格から入りますね。処世の核心は「誠意誠心」だ、と渋沢は言う。特別な場面、たとえば交渉の場とか人前でのスピーチとか、そういうハレの場だけで道徳を発揮しても意味がない、と。箸の上げ下し、という比喩が本文に出てきますが、要するに食事中の細かい所作みたいな、誰も採点していない場面にこそ、その人の地が出るということ。これ、ぼくが採用や評価の現場を見てきた感覚と、かなり重なります。面接では誰だって取り繕えるんですよ。ただ、会議室に入る前に廊下でどう振る舞っているか、資料を渡す時に相手の手元を見ているかどうか、そういうコストがかかっていない場面の方が、評価する側は実はよく見ている。意図してそうしているというより、そっちの方が情報量が多いから自然と目がいく、という構造だと思う。[pause] 次が「自分を知ること」、蟹穴主義の本体ですね。蟹は自分の甲羅のサイズに合わせて穴を掘る。大きすぎる穴を掘っても意味がないし、小さすぎたら入れない。渋沢が言っているのは、自分の器を冷静に測った上で、自分が最も機能できる場所を選べ、ということです。これ、本当ですか、と一度問い直した方がいい理解があって、現代ではこの「蟹穴主義」がしばしば「分をわきまえて小さくしていなさい」という抑圧の言葉として使われることがある。でもそれは骨抜きになっていて、渋沢の言っていることは挑戦の禁止じゃないんですよ。骨抜きになっている部分を言うと、「自分の器を測るプロセス」が全部省略されて、結果の「小さく留まること」だけが残っている。本来は自己認識の精度を上げるための、いわば訓練論だった。渋沢自身が大蔵大臣と日本銀行総裁への就任を辞退した話がある。これを謙遜とか遠慮として読むと、なんか美談で終わっちゃうんだけど、ぼくの読み方は違って、「自分が最も価値を出せる役割の構造」を冷静に判断した、ということだと思う。官の頂点に立つより、民間で資本と人をつなぐ役割の方が、自分の甲羅に合っていると見切った。そういう話として読める。で、組織でも似たことは起きていて、自分の実力より大きいポジションを取りに行って、周りも含めて傷つくケースは珍しくない。逆に、2番手として長く機能し続けた人が、事業そのものを存続させているケースも多い。ぼくの見立てでは、「蟹穴」を選んだ人間の長期的な影響力は、表に出た人間のそれと必ずしも劣らない、と思っています。[pause] 最後に、喜怒哀楽について。渋沢は感情を持つなとは言っていないんですよ。「淫せず傷らず」という言葉が本文に出てきて、これは度を超えた感情の表出が人生の誤りを生む、という警告です。感情そのものの否定じゃなくて、感情の振れ幅が判断を壊す、という機能の話。たとえば怒りは持っていい、でも怒りのピークで重要な意思決定をするな、ということ。これ、蟹穴主義と同じ構造をしていて、「自分の感情の甲羅のサイズ」を知れ、という話として読めます。データで見ると逆なんですよね、という感じで言うと、感情を抑圧している人が冷静な判断をしているかというと、そういうわけでもない。抑圧と調節はぜんぜん別の話で、渋沢が言っているのは後者だと思う。
まあ今日のまとめをするとしたら、「蟹穴主義」は「小さくしていなさい」じゃなくて、「自分の甲羅のサイズを、自分で正確に知る訓練をしろ」という話だった、と言いたい。ここで、あなたに問いを置いていきます。自分の「甲羅のサイズ」を、あなたはどう測っていますか。上司に言われた評価で決めているか、同期と比べた相対値で決めているか、それとも自分の観察で決めているか。もしそれが訓練だとしたら、今いる組織の中で、そのプロセスを真剣にやっている人は、体感でどのくらいいますか。次回も同じ「処世と信条」の章から、別の角度を拾ってみます。番組「論語と算盤を読み解く」でした。
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