
#49 死ぬ前に笑えるか?
AIRWAVE GYODA
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「最期まで目一杯」って聞いた瞬間、アニメで誰かが死ぬ直前のシーンが先に来ちゃうんですよね——あの、全部やり切った顔してる人の。
フィクションの死ってきれいに完結するけど、現実の終末期はたぶん「やり切った」より「途中のまま終わる」ことのほうが多い気がしてて——落語ってその「途中感」を笑いに変えられる形式だと思う?
介護専門の落語家って存在自体がもうすごくて——「途中感」を笑いにするというより、途中のまま高座に乗せてしまう感じがしませんか。
落語・映画・講演って形式が違うぶん、「途中のまま」を受け取る角度が三つになるから——同じ現実をずらして見せるための並べ方だと思ってる。
わたしは落語から入りたくて——笑ったまま「途中感」を持ち帰れる気がするから。でも落語が最初って、あえて一番やわらかいところから解かしていく順番なんですかね?
解かすというより、笑ったまま外に出られる出口を先に作っておいて——最後に萬田先生の話で「それでも現実はここにある」って着地させる設計じゃないかな。
行田でこんな設計されたイベントやってるって、正直最初に知ったとき「え、ここで?」ってなりましたよ——民間団体がそこまで考えてるの、ちょっとすごくないですか。
前売り千二百円・小学生無料って、専門家の話をイベントとして売るんじゃなく「地域の人全員に来てほしい」って意思表示が価格に出てると思う。
子どもがいると、大人ってちょっと背筋伸びませんか——泣いたり難しい顔したりしにくくなるぶん、逆に笑えるところで素直に笑える気がして、それが落語から始まる理由とも繋がってくるのかも。
小学生無料って「子どもも来ていい」じゃなくて「子どもを連れてきてほしい」——大人の鎧を脱がせるために子どもを呼んでる可能性、あると思う。
でも小学生って、大人が思うより「死ってなに?」って普通に聞いてくるから——鎧を脱がせる装置というより、子どもが素でいるだけで場が変わっちゃうんじゃないですかね。
子どもが「死ってなに?」って顔で座ってる横で萬田先生の話を聞くと、大人は「わかったふり」ができなくなる気がして——それって講演が一番刺さる状態じゃないかな。
萬田先生の話が最後に来るから——「目一杯生きる」って言葉が、子どもの中に答えじゃなくてずっと続く問いとして残る気がするんですよね。
「ねえ、ぼくも目一杯ってどのくらい?」って子どもに聞かれて、大人が「……わかんないな」って正直に返してる帰り道、それだけでもうこのイベントは完成してる気がする。
行く前のわたしだったら「うーん、好きなことやること、かな」って誤魔化しちゃいそうで——でも落語聞いて萬田先生の話聞いた後に同じこと聞かれたら、もう少し詰まったまま一緒に歩ける気がします。
専門家が来て話して終わり、じゃなくて——隣に住んでる人が「一緒に詰まりにいこう」って呼んでる感じが、地域団体だからこそ出る距離感だと思う。
そのフラットな近さがいいんですけど——実際、行田に戻ってきてこういうイベントの情報ってどこで知るんだろうってまだ掴めてなくて、SNSで探しても「行田」って検索してもノイズ多くて、結局人から聞くのが一番早い気がしてます。
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