
深夜の、それでいいんじゃないか
RIO
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深夜の、それでいいんじゃないか。えーと、きょうはですね、仕事終わりにコンビニ寄って、レジ前に並んでたんですよ。セルフレジのほうに誘導されそうになって、まあ別にいいんですけど、なんとなく有人レジに並んで。で、待ってる間にスマホ見ながら、むかし読んでた漫画を、サブスクで読み返してたんです。バトルものの、まあ誰でも知ってるようなやつ。そしたら、主人公がボロボロにやられてる場面で、仲間がばーっと駆けつけてくる、あのシーンがきて。でね、ぼくが思ったのが「感動した」じゃなくて、「また来た」だったんですよ。コンビニのレジ待ちで、「また来た」って思った。[pause] その「また」が、なんかちょっと頭に残ったまま、今夜になってしまったので、今日はその話をします。
バトル系の漫画とかアニメって、「仲間がピンチになって、誰かが駆けつけて、ぎりぎり間に合う」っていうシーンがほぼ様式美として定着してますよね。セリフのパターンも決まってる。「待たせたな」とか「遅くなってすみません」とか「一人でやろうとするな」とか。あなたも、みっつくらいはすぐ思い浮かぶんじゃないですか。で、そのシーンで泣く人もいる。感動する人もいる。それ自体をどうこう言うつもりはないんですよ。ぼく自身も、コンビニで「また来た」って思いながら、ちゃんと読んでましたから。[pause] ただ、なんで毎回間に合うんですかっていうと、これ単純で、間に合わないと話が終わるんです。主人公が死んだら連載が終わる。なので「間に合う」っていうのは、リアリティじゃなくて物語のぶんぽうなんですよね。現実でいうと、誰かが気づかない、連絡が一歩遅れる、来たくても来られない事情がある、そもそも誰も来ない、っていうほうが、たぶん統計的には多い。ぼくが前にいたコンサルのプロジェクトでも、「あのとき誰かが気づいてくれてたら」っていう話は、終わったあとの振り返りで毎回出てきたんですけど、「ぎりぎりで誰かが来て全部解決した」っていうのは、ほぼなかったですね。まあそれは当然で、現実はそういうもんなので。で、ぼくが気になってるのはそこじゃなくて、もうひとつ先の話で。そのシーンを何度も何度も見続けることで、「ピンチには誰かが来る」っていうのが、無意識の前提として内面化されていく可能性があるんじゃないか、ということなんです。これ、認知バイアスでいうと「かようせいヒューリスティック」に近いんですよ。よく目にするシナリオを、脳が「ありえること」として採用していく、というやつで。何百回も「間に合う」を見ていると、「間に合う」が自分の現実のデフォルトになりうる。データで見ると、逆なんですよね。「助けを求めない」じゃなくて、「待てばいい」「いずれ誰かが来るはず」っていう、受動的な期待のかまえが育ちうる、ということで。これ、断言はしないですよ。ひとつの仮説として持っておきたい、という話です。ただ、「感動した」で終わってしまうと、その構造をとい直す機会がなくなる。それがちょっと惜しいな、というのが、きょうのぼくの正直なところです。
えーと、今夜はお便りが届いていないんですよ。で、それをそのまま言うんですけど、「届いていない」ということ自体が、今夜のテーマとちょっと重なってまして。ラジオに送ろうと思って止めた人、送ろうか迷ってそのままにした人、っていうのは、たぶんいる。その人たちの沈黙も、ある意味で「間に合わなかった」のひとつだとぼくは思っていて。「来てくれるはず」「届けば誰かが反応してくれるはず」という期待を持っていると、来なかった・届かなかったという事実が、予想より大きくなる。逆に言うと、来なかった経験を持っている人ほど、今夜の話は刺さるかもしれないし、刺さりたくないかもしれない。[pause] あなたは今、「誰かが来てくれる」という感覚を持っていますか。持っているとしたら、それはどこから来ていると思いますか。漫画ですか、それとも実際に来てくれた経験ですか。それとも、ただそう思いたいだけですか。
「感動できること」と「それを現実に適用していいこと」は、別の話です。それだけ言えれば、今夜はじゅうぶんです。次回のお題を残して終わります。あなたが本当に困ったとき、誰かに連絡しましたか。それとも、待ちましたか。深夜の、それでいいんじゃないか。
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