
#84 100円で開く、親の居場所
AIRWAVE GYODA
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子どもの頃って、親がどんな人たちに支えられてたか全然知らなかったなって、大人になってから気づくことが多くて。
子どものレンズには映らない部分だから当然かもしれないけど、裏を返すと孤立してる親って外からも見えにくいってことで——「たんぽぽ」みたいな場が存在するだけで何かが見えやすくなる気がするんだけど、宵はどう思う?
場があっても、知らなかったら来られないじゃないですか——わたしですら、帰ってきてからこういう取り組みを知るのに時間かかったので。
場があることと、届くことは全然別の話で——社協への電話か二次元コードで申し込めるって書いてあるんだけど、宵みたいな二十四歳がそのどっちかにすんなり手を伸ばせるかって、正直どう思う?
二次元コードってどこで見るんだろうって思ったら、わたし自身が知らなかったんですよね——手軽なはずなのに、そのコードにたどり着く経路がそもそも見えてない。
ワークショップとか紙芝居とか折り紙製作とか、中身が見えたら「行ってみたい」ってなるはずなのに、その入口に気づけないと活動そのものが存在しないのと同じになっちゃうんだよね。
正直、「民生委員・児童委員」って聞いたとき、お年寄りの見守りをする人たちのイメージが先に来て、子育てと結びつかなかったんですよね。
ぼくも最初そのイメージだったんだけど、「民生委員・児童委員主催」って看板より「折り紙つくって、しゃべって帰れる場所」って先に出せば、もう少し違う人に届く気がしてる。
月一回って、「来られなかった月があっても、また次がある」って思える間隔な気がして——毎週だとプレッシャーになるし、年二回だと繋がりが途切れる、その真ん中をとってるのかなって。
偶数月・六回って、子どもの季節の変わり目——入園・夏休み・冬休みの前後あたりに重なってて、しんどさが波になるタイミングを自然と拾う設計になってる気がするんだよね。
波のタイミングって読めそうで読めなくて、「今日なんか無理」って日に限って次の回まで三週間あったりするんですよね。
その「間に合わない」が正直なところで——月一・三十組・百円って、網の目が粗い設計だと思いつつ、それでも「ここに戻れる」って感覚が積み重なること自体に意味があるんじゃないかってぼくは見てる。
でも毎回同じ顔ぶれになってくると、途中から参加した人って「もうできあがってる輪だ」って感じて、余計に入りにくくなりそうで。
三十組って、全員が毎回皆勤するわけじゃないから、常に何割かが「今日初めて来た人」になる構造で——それが意図せず「できあがり切らない場」を維持してる気がしてる。
毎回リセットされると、「また自己紹介から」ってなりそうで——場が深まるより先に時間が終わる、みたいなことが続くと、常連の人がそこに求めるものも変わってきそうですよね。
深まりすぎると「来なかった月」に罪悪感が生まれるから、毎回少しだけリセットされる軽さが、むしろ百円・飛び込み参加の精神を守ってる気がしてる。
専門家って「あなたの話を聞く役割の人」だから安心できる半面、「うまく話さなきゃ」ってなる気がして——同じ立場の人となら、うまくなくてもいい。
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