論語と算盤を読み解く
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EPISODE· 2026年8月7日

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opening

今日はですね、番組を始める前にちょっと話したいことがあって。最近、会議で「それ常識じゃないですか」って言われる場面を二回続けて目にして、ああ、この言葉はそういう使われ方をするんだな、と改めて思ったんですよ。どっちの場面でも、その一言で議論が終わった。封じる道具として使われていた、とぼくには見えた。で、今日の章がちょうど「常識と習慣」なので、タイミングがよかった。渋沢栄一が「常識」という言葉に込めた構造は、日常の用法とかなりずれている。そのずれのなかに、今日は入っていきます。

reading

渋沢が「常識」をどう定義しているかというと、これが面白くて、「智・情・意の三者が均衡している状態」と言っている。智は判断力・理性、情は感情・共感、意は意志・行動力。三つを平らに持っている、それが常識だ、というのが渋沢の立場なんですよね。でここで重要なのは、どれかひとつが際立って優れていることではない、と明言していること。均衡、バランス、釣り合い、それが全体の話の軸になっている。そしてこの文脈で渋沢は朱子学を名指しで批判しているんですが、これが単なる学術上の論争じゃなくてですね、要するに「智を過度に抑制した結果、儒教が実務から離れて硬直した」という、かなり実地に根ざした観察として読める。ひとつの要素を純化していった先に何が残るか、という話をしているんだと思う。[pause] じゃあ三者のうちどれかだけが突出したときに何が起きるか、を具体的に見ていくと、あなたも心当たりがある場面が出てくるはずで。智だけが突出した状態、論理は鋭いし分析は正確、でも最終的に何が起きるかというと、データと理論が「相手を封じる道具」になっていく。会議で数字とロジックを積み上げて、異論を出せない空気を作る動き、あれは智の過剰がそのまま出たかたちで、意思決定を助けているのではなく、むしろ遮断している。情だけが突出した状態になると、「みんなの気持ちを大切に」という方針のもとで決断が出なくなる。方針が決まらないのではなくて、意志の介入そのものを拒否した結果として決まらない、という状況が生まれる。そして意だけが突出した状態、これは推進力があると評価される人間が陥りやすいんですが、確信が強いゆえに情報も他者の感情も受け取らなくなる。一年後に振り返ると、プロジェクトは前に進んでいるけれど周囲に誰もいない、という局面。ぼくはこれ、推進力の問題じゃなくて均衡の崩れだと見ている。[pause] で、ここをもう一段めくって現代の用法に当てはめると、面白いことが起きていて。「常識がある人ですね」って言うとき、実際何を指しているかを考えてみると、ほぼ「意の抑制」を褒めている場合が多い。空気を読む、出る杭を打たれない、波風を立てない、余計なことを言わない。でもこれ、渋沢の定義とはほぼ逆なんですよ。渋沢の常識には意志が必ず入っている。意志を削ぎ落とした状態を「常識がある」と呼ぶなら、渋沢の枠組みではそれは常識じゃない、情の過剰か、智の消極的な使い方に過ぎない。それ、本当ですか、と聞きたくなる話でしょう、これ。「常識人」という評価が「均衡した人」ではなく「摩擦を起こさない人」の意味で使われているとすれば、それ自体が渋沢の朱子批判と構造的に同じ問題だと思う。一要素の純化が社会を歪める、という観察を渋沢はしていたわけで、現代の「常識」という言葉の使われ方もその例外ではない、とぼくには見える。

closing

ちょっと確認してみてほしいんですけど、あなたの周りで「常識がある人だ」と言われている人、その人はどこが突出していて、どこが削られているか。均衡の評価として使われているのか、摩擦を起こさないことへの評価として使われているのか。その二つはかなり違う話だと思っていて、でも同じ言葉でまとめられている。まあ、どっちが正しいとは言わないけど、受け取るときに一度確認してみる価値はある、とぼくは思う。次回は「習慣」の側に入ります。常識の外側を固める仕組みとして渋沢が習慣をどう置いているか、そこを読んでいく予定です。論語と算盤を読み解く、でした。

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