
論語と算盤を読み解く
RIO
TAP TO PLAY
このエピソードをシェア
はい、えーと、今日ちょっと蒸し暑くて、収録前にぼうっとしながらお茶を飲んでたんですよね。で、急須の取っ手が熱くて、思わず引っ込めてしまって——まあそれだけの話なんですけど、なんか、他の人も同じ温度で困ってるんだろうな、とふと思ったりして。あなたも日常でそういう小さな「共感」みたいなことって、ありますよね。 [pause] で、今日の本題は『論語と算盤』の「実業と士道」章。渋沢が「忠恕」という言葉を使う章なんですけど、ぼくが面白いと思うのは、ここでの忠恕が個人の心の持ち方の話じゃないっていう点で。渋沢はこれを、日本と清国——当時の中国——の経済連携の話として展開している。論語の言葉が、国際ビジネスの設計論に直結している。その接続の仕方が、今日ちょっと追いかけたいところです。
まず、渋沢がこの章で置いている原則をそのまま押さえたいんですけど、「己の欲せざる所は之を人に施さず」——これが彼の言う忠恕の核心で、それを日清間の提携の条件として出してくる。商業の本義として「有無相通じ、自他相利する」とも言っていて、つまり利益を殖やす事業というのも、それ単独では真の目的に達せず、道徳が伴って初めて機能する——これは『論語と算盤』全体を貫く構造と同じです。 で、渋沢はただ観念論を言っているわけじゃなくて、実際に現地を視察した経験から話を引いてくる。彼が指摘した問題のひとつが、中国社会に中流層がない、個人主義・利己主義が発達しているという点で。これを「欠点」として書く渋沢の視線は、時代的な優位者の目線を帯びているし、そこはそのまま受け取れない。ただ、「中流社会がなければ連帯の担い手がいない」という構造の見立て自体は、今も使える診断だとぼくは思っていて、たとえば組織の中間層が薄くて上と現場が分断されているときに「相互理解を大事にしましょう」と言っても、誰がその橋渡しをするのかって話になるじゃないですか。あれと同型の問題を渋沢は国際間で見ていた、と読める。 [pause] で、ここが今日ぼくが一番気になるところなんですけど——「忠恕」とか「相手の立場に立つ」って言葉は、現代でもよく出てくる。でもそれが使われる文脈を見ると、たいていは個人の対話マナーか、チームの心理的安全性の話で終わっている。渋沢がこの章で使っている忠恕は、それとは次元が違って、「相手と経済的に運命を共にする構造を作ること」が前提にある。具体的に言うと、日清間の合弁、共同事業、経済的な連鎖を実際に組む、ということで、気持ちとして相手を思いやるだけでは足りない——「相手が損をすれば自分も損をする」仕組みを先に設計して、そこに忠恕が乗ることで初めて制度として機能する、と彼は言っている。これ、骨抜きの典型パターンで、精神論として内面化されると、構造論としての切れ味がきれいに消えるんですよね。 それ、本当ですか——って、ここで一度問いたいんですよ。あなたの周りでも、企業や組織が海外パートナーや取引先と「共に発展しましょう」「相互利益を目指します」と宣言する場面、あるじゃないですか。でも契約設計を見ると、リスクとリターンの分配が非対称なままのケースって、けっして珍しくない。片方が利益を取り、損は相手が被る構造になっていながら、言葉の上では提携・友好を謳っている。渋沢の言葉で言えば、「己の欲せざる所を人に施している」状態で、それは真の提携じゃない——経済的連鎖がなければ忠恕は機能しない、という診断が、そこに刺さる。 忠恕が骨抜きになる瞬間って、だいたい「構造の話」から「気持ちの話」に落とし込まれるタイミングで起きる、とぼくは見ているんですけど、それが正しいかどうかはまだ分からない。
渋沢が「忠恕」を使うとき、それは個人の徳目の話じゃなくて、経済的な構造の設計論だった——そこだけ、今日は持って帰ってもらえれば十分で。 [pause] ひとつ、問いを置いて終わりにします。あなたが今、誰かと「提携している」「連携している」と思っているとき、そこに経済的な運命の共有はあるか。リスクとリターンが同じ方向を向いているか。気持ちの話で終わっていないか——ちょっと確認してみてほしい。次回も、『論語と算盤』を一章ずつ開いていきます。番組は「論語と算盤を読み解く」でした。
← PREV
ARCHIVE
論語と算盤を読み解く の他のエピソード