
論語と算盤を読み解く
RIO
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えーと、今日はちょっと蒸し暑くて、収録前にコーヒー飲もうとしたんだけど、缶を開けた瞬間に中身がちょっとあふれて、シャツの袖に。まあ、それだけなんですけど。なんか「今日はそういう日か」って思いながら座ってます。[pause] で、今日扱うのは『論語と算盤』の『常識と習慣』の章。読んでいくうちに、気になる一節に当たったので、そこをゆっくり見ていこうと思う。「動機さえ善ければ、結果が悪くても仕方ない」——あなたも、どこかで聞いたことある言い回しじゃないですか。職場でも、ニュースでも、なんとなく漂っているあの空気。で、渋沢はそれに対して「いや、そうじゃない」と言っている。ただ、どう違うのかは、もう少し丁寧に読まないと見えてこない。今日はそこを一緒に確かめていく。
まず原文の話から入る。渋沢が言っているのは、善悪の判断は「動機」だけでは完結しない、ということで、彼の言葉を借りれば「志と所作、その分量と性質をともに較量せよ」ということになる。較量というのは比較考量、つまり両方を同時に天秤にかけなさい、という意味。で、具体的な例として登場するのがクロムウェル——イギリスの政治家で、清教徒革命を率いた人物。彼は熱烈な志のもとで「暗愚の君」、つまり無能な王を倒した。動機だけ切り取れば筋が通っているように見える。でも渋沢は言う、それでも悪行為と判断すべきだ、と。なぜかというと、その行為が国を危うくしたから、所作の結果が大きすぎたから。これ、ぼくが最初に読んだ時、渋沢は「結果主義者だ」と思った。でも、もう一段読むと違う。[pause] 渋沢は「動機を切り捨てて結果だけ見ろ」とは言っていないんです。動機不要論でも結果万能論でもない。だからこそ、この訓話は読む人によって都合よく引用できてしまう構造を持っている。「志があったから仕方ない」と読みたい人は動機の部分を、「結果が悪いなら志は無効だ」と言いたい人は所作の部分を強調すれば、どちらもそれなりに根拠を持てる。そこが骨抜きにされやすい箇所で、渋沢が実際に要求しているのはもっと手間のかかる作業なんです。志の熱量と質、所作の規模と影響、その両方を同時に手放さずに考え続けること。どちらかに逃げることを、渋沢は許していない。で、これ、現代の組織でもよく見る場面があって、たとえばある部署が「社員のためになる」という明確な動機のもとで制度を変えた、なのに現場では手続きが増えて、担当者が三人辞めた、みたいなことが起きる。そこで経営側が「でも意図は正しかった」と言った瞬間に、現場はそれ以上言えなくなる。動機が盾になって、所作の検証が止まる。あなたも、そういう場面を一度くらいは見たことあるんじゃないですか。逆もある。動機があいまいなまま始めた施策が、たまたま人を助けた、でも「なんとなく始めただけ」という経緯があるからと低く評価される組織もある。渋沢の較量という発想を使えば、どちらも同じ問いに引き戻される——動機の純粋さで免責しない、かつ結果の良し悪しだけで動機を無効化もしない、その両方を同時に保ち続けられるか、という問いに。[pause] ひとつ、ぼくの見立てとして言っておくと、渋沢がクロムウェルをあえて選んだのは面白いと思う。英雄的な文脈で語られやすい人物を、わざわざ「悪行為」と言い切っている。明治期の実業界というのは「志があれば多少の手段は」という空気が確かにあった時代で、渋沢自身もその中で動いていた。この主張には、自分への戒めの側面もあったんじゃないか、とぼくはそう読んでいる。ただ、これはあくまでぼくの見立てで、本人に確認できるわけじゃないから、そこは留保しておく。
で、最後にひとつだけ。あなたが何かを判断する時、動機から先に見る習慣がありますか、それとも結果から先に見ますか。どちらが正解とは言わないけれど、自分がどっちに引っ張られやすいかを一度確かめておくのは、そんなに損じゃないと思う。それ、本当ですか——自分の動機は善かったんだと、事後に確認している場面があるとしたら。渋沢が「較量せよ」と言った時、それは答えを出せと言っているんじゃなくて、問いを保ち続けろ、と言っているようにも読める。どちらかに決めてしまうと楽になるけど、たぶんそこで較量は止まる。次回も同じ『常識と習慣』の章から、別の訓話を読んでいく予定です。今日は「論語と算盤を読み解く」でした。
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