論語と算盤を読み解く
論語と算盤を読み解く
EPISODE· 2026年8月13日

論語と算盤を読み解く

RIO

論語と算盤を読み解く

TAP TO PLAY

このエピソードをシェア

SHARE
SCRIPT
opening

えーと、今日ちょっと話す前に言っておくと、最近ぼく、朝に散歩するのを再開してるんですよ。で、なんの変哲もない住宅街を歩いてるんですけど、歩いていると「ああ、この角の駐車場、いつの間にかコンビニになってる」とか「ここのブロック塀、補修してある」とか、そういうことが目に入ってくる。特別なことじゃないんですけど、まあそれが習慣になると、なんとなく街の変化に敏感になるというか。今日話すのは『論語と算盤』の『常識と習慣』という章で、渋沢栄一が「真の才能・智慧とは何か」について書いているところなんですけど、その話、実はぼくがさっき言った「散歩で街の変化に気づく」みたいな話と、構造がかなり近いんですよ。特別な天才の話じゃなくて、その逆の話。今日はそこを読んでいきます。

reading

じゃあ読んでいきましょうか。渋沢がここで言っていることの核心は、「真才真智とは常識の発達したものだ」という一文なんですよ。えーと、最初に聞くと「常識ね、はいはい」ってなりそうなんですけど、ちょっと待ってほしくて、渋沢が言う常識は「空気を読む」とか「波風立てない」とかじゃなくて、「自己の境遇に注意を払う」ことから育つもの、と書いてある。つまり観察の結果として育つものであって、既存の慣習に乗っかることじゃない。ここ、ぼくはかなり重要だと思っていて、現代で「常識的に」っていう言葉が使われる場面を思い浮かべてほしいんですよ。たとえば職場で「常識的に考えてそういうことはしない」と言われるとき、それって多くの場合「前例がない」「みんなそうしてない」という意味で使われてるじゃないですか。渋沢が書いてる常識は、そこから出発してない。 [pause] で、具体的なエピソードとして孔子と子路の話が出てくるんですが、これが面白くて、孔子が「道が行われぬなら、いっそ海に浮かんで世を捨てようか」と言ったときに、弟子の子路が喜んだ場面がある。子路は孔子の言葉を額面通りに受け取って「先生は自分を評価してくれてる」と喜んだわけですけど、孔子はそれを戒めた。もう一つ、ある国を治められるかと問われて子路が「できます」と即答した場面も出てくる。この二つを渋沢が並べているのは、子路の失敗が「知識がなかった」からじゃなくて「いまここで自分がどういう立場・分量にあるかを見ていなかった」からだ、という点を言いたいからだとぼくは読んでいる。無知じゃなくて、注意の欠如。それが渋沢の診断なんですよ。それから「幸に驕らず、災に哀しまず」という節に入るんですけど、ここで渋沢は「聖人ですら常に細事に注意を払っていた」と書く。で、「凡人が聖人に近づく唯一の修養法は、状況に適切に対応することだ」と言い切ってる。「唯一の」という言い方、かなり強い断言なので、ぼくはここで一回止まって読み直したんですけど、要するに才能の有無ではなく、観察の継続の話として書かれてるということです。 [pause] で、現代の話に引き寄せてみると、たとえばプロジェクトが暗礁に乗り上げているのに「この進め方は正しいはずだ、計画通りやろう」と既存の方針に固執する、というのは職場でよく見る場面ですよね。本人は「常識的に判断している」つもりかもしれないけれど、渋沢的に言えばこれは正反対で、今の境遇への注意を怠っている。一方で、状況が変わったことを静かに観察して、手を打ち替えていく人の動き、それが渋沢の言う「常識の発達した人」に近い。それ、本当ですか——「常識がある人」と「状況を正確に見ている人」は同じ意味だと思われているけれど、この二つは全然別物で、むしろ現実では逆方向に引っ張り合っていることがある。

closing

まあ、今日の話をまとめると——渋沢が言う真才真智は、特別な才能じゃなくて、自分が今どこにいて何が起きているかを観察し続ける習慣のことだ、ということです。で、一つ問いを置いておくと、あなたが「常識的に判断した」と思った瞬間、それは今の境遇をよく見た上での判断だったか、それとも「前はこうだったから」というパターンに乗っかっただけだったか——そこ、区別できてるでしょうか。次回も同じ『常識と習慣』の章から、別の角度で読んでいきます。今日はここまで。論語と算盤を読み解く、でした。

← PREV

エピソード

NEXT →

エピソード

ARCHIVE

論語と算盤を読み解く の他のエピソード