
論語と算盤を読み解く
RIO
TAP TO PLAY
このエピソードをシェア
論語と算盤を読み解く、始めていきます。えーと、今日ね、スタジオに来る前にちょっと喫茶店に寄ったんですが、隣のテーブルで会社の上司らしき人が部下にかなり強い口調で話していて、まあ内容まではわからないんですけど、あの空気感、あなたも一度は近くで目撃したことあるんじゃないですかね。で、それを横目に見ながら、今日の章のこと、頭の中でぐるぐるしていたんですよ。今日扱うのは『処世と信条』という章で、渋沢が「どう動くか」「何を選ぶか」という行動原理を、わりと直接的に並べた章です。タイトルが「争ひの可否」なので、一見すると処世訓っぽく聞こえるんですが、まあぼくの読みでは、渋沢の主張はもう少し構造的な話をしている。それがどういうことか、順番に読んでいきます。
まず、原文の主張の核心から整理すると、渋沢が言っているのは「争いは根性があるからする」という話ではなくて、「争いがなければ発展もない」という話なんですね。発展の条件として争いを位置づけている、という構造です。で、面白いのは渋沢がこれを個人レベルと国家レベルの両方で語っていること。個人の話をしてから、国のスケールに広げる、という書き方をしている。これ、意図的にやっていると思っていて、原理として同じだよ、と言いたいんですよね。個人が争いを通じて発展するのと、国家が競争を通じて強くなるのは、同じ論理で動いている、という。[pause] それから、後進を指導する場面の話があって、「庇護型の先輩」より「欠点を厳しく叱責する先輩」の方が、奮発心を促す、という具体的な場面設定が出てくる。ここをぼくはかなり丁寧に読んだほうがいいと思っていて、というのも、現代でこの箇所だけを切り取って「やっぱり厳しく叱責する方が人を育てる」という根拠に使う人が、わりといるんですよ。それ、本当ですか、と思うんですが——渋沢が言っているのは「叱責それ自体が良い」ではなくて、叱責が「奮発心を促す」という機能を果たす場合に限った話です。目的は相手の成長であって、叱責は手段に過ぎない。叱責する側の感情処理や、支配欲の解消のためにやっている叱責は、渋沢の論理から言うと完全に外れている。しかも原文には「欠点を厳しく叱責する」とあって、対象が「欠点」という具体的なものに限定されている。漠然とした圧力、たとえば「お前はダメだ」という全人格否定ではなく、「ここが問題だ」という指摘の精度が前提になっているんですよね。[pause] で、渋沢自身がどう争いを実際に運用していたかを見ると、これが面白くて、岩崎弥太郎との対立がありますよね。渋沢は岩崎の一人独裁的な経営を「合本主義に反する」として公然と異議を唱えた。一方で三井など他の財閥の幹部とは、事業ごとに協力関係を結んでいた。この使い分けって何かというと、渋沢は「争いを善とする」という一般論で動いていたんじゃなくて、争うべき対象と理由と局面を、かなり選別していた、ということなんですね。岩崎との対立は感情的な敵対じゃなくて、合本主義という自分の原理が侵害されたことへの構造的な異議です。「争いは必要だ」と書いた人間が、実際には争う基準の精度をかなり高く保っていた、というのは、ぼくには一番引っかかるポイントで、発展のためなら何でも争えばいい、という話とは、だいぶ違う。
えーと、今日読んだ限りで言うと、渋沢の「争いの可否」は「争え」という号令じゃなくて、争いの目的と対象と機能を問い直せ、という話として読めるんですよね。ぼくはそう読んだ。で、あなたが今「争い」と呼んでいるもの——職場での衝突でも、業界の競争でも——それは渋沢の言う発展の条件としての争いなのか、それとも目的が別のところにずれた何かなのか、自分で確認したことがあるか、というのが今日置いておきたい問いです。次回も引き続き『処世と信条』章から、別の訓話を読んでいきます。論語と算盤を読み解く、でした。
← PREV
ARCHIVE
論語と算盤を読み解く の他のエピソード