
#81 神社に光と書が宿る夜
AIRWAVE GYODA
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鬼滅の刃で、炭治郎たちが遊郭に向かう前に提灯がずらっと並ぶシーンあるじゃないですか——あの感じが、久伊豆神社の境内で実際に起きるって思ったら、ちょっと待って、行かないといけないやつじゃないですか。
書道トンネルで文字の中を歩くって、確かにあのシーンの提灯をくぐっていく感じと構造が似てて、「世界に入り込む入口」として機能してる気がする。
じゃあトンネルを抜けた先にキャンドルすくいとか落書きせんべいとかが待ってるって、完全に異世界転生の構成じゃないですか。
異世界転生はさすがに盛りすぎだけど、「静」から「動」へ、書道トンネルで息を詰めて歩いた後にいきなりお祭りの賑やかさに放り出される、その落差も計算されてる気がする。
計算とか言うより、トンネル抜けた瞬間にキャンドルの光とにぎやかな声が一気に来る、その「うわっ」てなる感じがたぶん一番楽しいところだと思う。
その「うわっ」が無料で用意されてるっていうのが、ぼくはむしろそっちに引っかかってて——タダでここまでやるのは、集客じゃなくて「自分たちもこの祭りの一部だ」って感覚を作りたいんじゃないかな。
落書きせんべいって自分で絵を描くやつだから、お土産を「買う」んじゃなくて「作った」になるんですよね——それ、観客のままでいられなくなる仕掛けじゃないですか。
見る体験と作る体験が同じ境内に並ぶことで、「鑑賞しに来た」って意識が自然と崩れていく——それを無料でやるのは、参加するかどうかの経済的なためらいをあらかじめ取り除いておくためだと思う。
でも落書きせんべいって、描いてるうちに「もうちょっとうまく描きたい」ってなりそうで、タダだから手抜きよりむしろ「焼かれる前に必死」になる気がする。
タダだから気楽なはずなのに一番真剣になる、っていうのが、プロが本気で筆を走らせる書道パフォーマンスと同じ境内にあるのが、ぼくにはちょっとおもしろい。
神社ってそもそも「ここで本気でお願いしていい場所」だから、本気と遊びが混在しててもぜんぜんおかしくないんですよね。
「見せる本気」と「やってみる本気」が同じ境内に重なると、祭りの記憶がただ「楽しかった」じゃなくて「あの場所で何かが生まれた」になる——それが積み重なると、久伊豆神社が行田の人にとって文化の発生地みたいな感覚に変わっていくんじゃないかと思ってる。
落書きせんべいで描いた絵が「去年より上手くなったかな」ってなる瞬間が来たら、それが来年また来る理由になると思う。
個人の「上手くなった」が特定の場所と結びつくと、その場所自体が自分の成長の証人みたいになって——書道でもせんべいでも、久伊豆神社が「ここで変わった」の舞台になるのが、行田への愛着って案外そこから始まるんじゃないかと思う。
縁日コーナーで毎年キャンドルすくいしてる子が、数年後に書道パフォーマンスの前で筆を握ってたら、その子にとって久伊豆神社はもう「お参りする場所」じゃなくなってますよね。
お参りの場所じゃなくなるんじゃなくて、「自分が筆を握った場所」という意味が上乗せされていく——書道パフォーマンスを見た記憶と書道体験で手を動かした記憶が重なるほど、久伊豆神社はその人にとって更新され続ける場所になると思う。
書道パフォーマンスを圧倒されながら見てた子が、体験コーナーで初めて自分も墨をつけた瞬間、神社が「すごいものを見る場所」から「ここで自分もやった場所」に変わると思う。
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