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論語と算盤を読み解く
EPISODE· 2026年9月30日

論語と算盤を読み解く

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opening

今日ね、収録の前にちょっと本棚を整理してたんですよ。で、まあ積んでる本が多いんですけど、「論語と算盤」が二冊あって、あれ、これ二冊買ったんだっけ、って。片方はメモだらけで、もう片方はほぼきれいで。同じ本なのに、全然別の読み物になってるな、と思って。まあそれはどうでもいい話なんですけど。[pause] 今日取り上げるのは「実業と士道」の章です。この章、渋沢が「誤解」という言葉をはっきり使っている、わりと珍しい章で、告発じゃなくて「なぜそうなったのか」を構造で説明しようとしている。誰が何を誤解していたのか、というのをまず頭に置きながら聞いてもらえると、後半の話が入りやすくなると思います。

reading

この章で渋沢が言うのは、「富をなせば仁ならず」という観念が、江戸時代の日本に広まっていた、ということです。金を稼いで豊かになった人間は、道徳的ではない、という見方。これ、孔子の教えそのものじゃなくて、江戸幕府が儒教を統治のツールとして使う中で生まれたゆがみだ、と渋沢は読んでいる。具体的に言うと、幕府は武士を「人を治める者」として頂点に置いて、商工業を「物を作って売る者」として下位に位置づけた。道徳は武士が持つもの、商業は道徳とは別の話、という棲み分けが制度として設計されたわけです。それが三百年続いた。[pause] で、その結果として何が起きたかというと、まず武士の側では、道徳を「持つ立場」として祭り上げられたんだけど、実際の経済や生産の現場からは切り離されていくので、道徳が形だけになっていった。一方で商人の側は、道徳を求められない代わりに、卑屈さと、まあ言ってしまえば虚偽が横行した。どうせぼくたちは低い職分だから、という自己規定が、倫理的なたるみの温床になったわけです。渋沢の見立ては「制度が人を作った」というもので、個々の武士や商人がダメだったという話ではなくて、構造が行動様式を決めた、と読むのがぼくは正確だと思っています。この読み方、あなたにとってはどうでしょうか。ちょっと置いといてください。この章はよく「商売にも道徳が必要だ」という話として要約されるんですけど、ぼくはそれ、表層で止まってると思っていて。渋沢が本当に指摘しているのは「道徳と経済を分離した側の責任」だ、ということです。商人が卑屈になったのは商人の資質の問題じゃなくて、道徳を持つとされた側が、意図的に経済を道徳の外に置いたから、という構造批判がこの章にはある。現代に置き換えてみると、「現場は数字だけ、倫理は経営が語る」という企業内の分断がこれと近い。たとえば営業担当が無理な目標を達成しようとして不正をした時、「なぜそういう状況が生まれたのか」より先に「個人の倫理の問題」として処理されることって、あるじゃないですか。この図式が、江戸期の商人観とそのまま重なる。道徳を持つとされた側が経済判断の現場から遠ざかっている時、不正や虚偽は組織の末端に吹きだまる。それ、本当ですか——「うちの会社はSDGsに取り組んでいます」と発信している人が、現場の調達や営業の判断にどれだけ関わっているか、確認してから言えているか。渋沢自身が「合本主義」で自ら経済の現場に立ち続けたのは、「道徳を持つ側が現場を離れない」という、この誤解への自分なりの回答だったとも読める、とぼくは思っています。

closing

渋沢が見た「三百年の誤解」は、制度が終わったあとも人の意識の中に残り続ける、という話をして今日は終わりにします。江戸が終わって百五十年以上経った今も、「道徳を語る部署」と「数字を動かす現場」が別の部屋にある会社って、あなたの周りにどうですか。同じ人が両方を担っているか、それとも分かれているか。この問いはぼくも答えを持っていないので、一緒に考えてもらえればと思います。[pause] 次回も「論語と算盤」の別の章を読んでいきます。番組「論語と算盤を読み解く」でした。

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