
論語と算盤を読み解く
RIO
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論語と算盤を読み解く、始めます。ええと、今日はちょっと蒸し暑くて、収録室に入る前にコーヒー買ったんですけど、レジでポイントカードどうしますか、って聞かれて、あ、ぼく持ってないです、って答えたら、よかったらご登録を、って言われて。まあそれ自体は普通なんですけど、あとで思ったんですよね、あれってお店が言う「信頼関係を築きましょう」の実践のはずなんだけど、完全に「次も来させる仕組み」として設計されてるよなって。なんかそれ、今日の話題にちょうど繋がってしまった。今日扱うのは、渋沢栄一の『論語と算盤』、「実業と士道」という章の一節で、日本の商人がなぜ長いこと道義的に軽く見られてきたのか、その原因を渋沢がどう診断しているか、というところです。商人が悪かったのか、それとも別の何かが悪かったのか、そこを読んでいきます。
で、まず渋沢の診断から入ります。渋沢が言うのは、商人が腐っていたから道義的に軽く見られていた、という話じゃないんですよ。そうじゃなくて、朱子学の設計として、道徳を考え説く側の人間と、その道徳を実行する対象に含まれない人間が、最初から分けられていた、という構造の問題だと言っている。武士や知識層が治める側で、商工業者は治められる側、つまり被治者として置かれた。で、道義的な訓練の回路は治める側に向けて設計されていたから、商工業者はそもそもその回路に繋がっていなかった。ぼくはこれ、読んでてかなり鋭い指摘だと思ったんですよね。「あの人たちは道徳心がなかった」じゃなくて「道徳の訓練が届く仕組みになっていなかった」という言い方をしているわけだから。これは制度批判で、個人批判じゃない。[pause] で、その隙間に何が入ってきたかというと、欧米の功利学説なんですよね。利己心を理論的に正当化する、個人が利益を追求することが巡り巡って社会の利益になる、という論理。それ自体がすべて間違いというわけじゃないとぼくは思うんですけど、問題は順序で、道義的な土台がないところに功利学だけが載った、というのが渋沢の見立てです。土台がないから、利益の最大化そのものが目的になった実業家が増えた。あなたも、ビジネスの世界で「利益を出すのが正義」という言い方をする人に会ったことくらいはあるんじゃないですか。あの種の言い方は、功利学が目的化したときの典型的な形だと思う。で、そういう実業家を世間が「成功者」として尊敬する、という話が次に来ます。ここが渋沢が見ている一番厄介な構造で、個人が堕落した、で終わらずに、その堕落した形を「成功」と呼ぶ基準が社会に定着すると、次世代がその基準に向かって動く、という循環になる。何を成功と定義するかが、次に生きる人の行動を規定する、という話です。これは今でもそのまま当てはまる構造だと、ぼくは思っています。[pause] でね、渋沢の処方箋として出てくるのが、「信の威力を闡揚する」、つまり信を商業道徳の根幹に置き直せ、ということなんですが、これが現代でどう扱われているかを一段めくると、かなり面白いことになっている。今の日本でも「信頼が大事」「誠実さが基本」という言葉はものすごく広く共有されているんですよ。どの会社のウェブサイトにも書いてある。でも、その「信頼」が語られる文脈が、ほぼ「長期的に得をするための手段」に収縮しているケースが多い、というのがぼくの感覚で。たとえば業界で不祥和が起きたとき、各社が声明を出すじゃないですか。あの文章の中に「お客様の信頼を取り戻す」という表現が必ず出てくる。でも、なぜ信頼を守るのか、の根拠を辿っていくと、最終的に「ビジネスを継続するため」「企業価値を守るため」に帰着している。それって渋沢が批判した「利益問題に終始する実業家」の構造が、誠実な言葉の皮を被って現れているだけじゃないか、とぼくは見ています。「信」という言葉は残っているのに、中身が功利学に上書きされている。渋沢が繋ぎ直そうとした回路が、また切れている、ということです。渋沢が論語と算盤を並べて実践しようとしたのは、朱子学が切断した、商工業者への道義の回路を繋ぎ直すことだった、とぼくは読んでいます。説教じゃなくて、設計の修正として。
それ、本当ですか、という問いを自分にも向けてみる価値はある、と思うんですよね。渋沢がこの章で問うていたのは、誰が悪いかではなく、何の設計が問題かという問いの立て方でした。個人を責めずに、構造を見る。で、あなたが今日、仕事の場面で「信頼が大事だ」と言うとき、その根拠はどこに置いていますか。道義として置いているのか、それとも利益計算の末尾に、念のため置いているのか。自分に問う価値はあると思います。次回も『論語と算盤』の別の章を読んでいきます。論語と算盤を読み解く、でした。
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