
論語と算盤を読み解く
RIO
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えーと、ちょっと今日は収録前に珍しいことがあって。いつも使ってる喫茶店のカウンター席が満席で、仕方なく窓際の四人掛けに一人で座ったんですよ。で、なんとなく外を見てたら、向かいのコンビニの店員さんが客に深々と頭を下げてて、でもその客が受け取った袋をそのままアスファルトに引きずって歩いていく、という場面が目に入って。まあ、それがどうということではないんだけど、ぼくはそういうのをついじっと見てしまう。誰かが誠実にやっていて、それが別の場所でぞんざいに扱われている、という構図が気になるんですよね。今日の章と、どこかつながる気がしたので、そこから入ることにします。今日は「理想と迷信」という章から、「廓清の急務なる所以」という訓話を読んでいきます。廓清、これは汚れを一掃して清めること、を意味する言葉で、渋沢がここで「急務だ」と言っているわけです。ただ、「清廉であれ」という話かというと、ぼくはそう読まなかった。何が問題にされているのかを、次のセグメントで一緒に見ていきましょう。
まず、この章の表面を読むと、こういうことが書いてある。明治維新のあと、商人や実業家たちは商売の知識や技術は身につけたけれど、道徳教育がそこに追いつかなかった。結果として「富を殖す方にのみ相挙つて進む」——渋沢の言葉そのままですが、つまり利益を増やすことだけに、社会全体が走った、と。腐敗が生まれて、堕落が起きた。ここまで読むと、「だから道徳が大事です」という話に聞こえますよね。ぼくも最初はそう読んだんですよ、正直に言うと。[pause] ただ、もう一層めくると、渋沢が批判しているのは腐敗だけじゃない。腐敗を理由にして、「生産と利殖の根本そのものを塞ごうとする動き」を、彼は同時に批判している。ここが読み飛ばされやすいところで、渋沢の言う廓清とは「商売をやめること」ではなく、「仁義道徳と、富を生む活動は矛盾しない」という根本原理を社会のなかに定着させることだ、と言っている。道徳を説いているように見えて、実際には「富を生む活動を守るための論理」を構築している。これ、構造として見るとかなりはっきりしているんですよね。で、現代でよく見るのは、この構造の半分だけを使うパターンで、あなたも組織にいれば心当たりがあるんじゃないかと思う。たとえばコンプライアンス違反が発覚した後に「この事業全体を見直す」という意思決定をする組織がある。外から見ると誠実な対応に見えるけれど、実態は問題の構造に手をつけないまま、規模を縮小することでリスクを薄めているだけ、というケースが少なくない。廓清のふりをして、萎縮しているだけ——渋沢の言葉で言えば、それは国家の富を毀損している、ということになる。逆もあって、「利益が出ているうちは社会的な問題は後で対処する」という先送りも、これはもちろん渋沢の言う廓清ではない。前者は道徳で利殖を潰し、後者は利殖で道徳を棚上げにしている。渋沢が求めたのは、どちらかを犠牲にして均衡を取ることじゃなくて、両者が矛盾しないことを「構造として示し続けること」だった。[pause] それ、本当ですか、と問い返したくなるほど単純な話ではあるんだけど、この構造を最初から事業設計に組み込んでいる組織は、不祥事のたびに根を断つ必要が生じにくい。不正が起きたとき、「何をどう立て直すか」ではなく「そもそもこの事業をやめるべきか」という議論が毎回発生するなら、それは最初の設計に公益の軸が入っていなかった証拠だと、ぼくは思う。それともう一つ。渋沢自身がこの論理を必要としていた文脈がある。彼は実業家でありながら道徳を語る人間として、「商売人が道徳を言っても説得力がない」という視線と常に戦っていたはずで、「矛盾しない」という命題は、聖人の訓示ではなく、彼が実業の現場にいたからこそ繰り返し言わなければならなかった言葉だ。そこを踏まえて読むと、この章の切実さが違って見えてくる。
まとめると、渋沢が「廓清」という言葉に込めたのは、不正を取り除いて終わりにすること、ではなかった。「道徳と富を生む活動は矛盾しない」ということを、構造として示し続けるという、継続的な営みのことだった、とぼくは読んでいる。で、あなたの組織やチームが「廓清」と呼んでいるもの——それは根を断っているのか、それとも構造を変えているのか。担当者を処罰して、プレスリリースを出して、それで終わりにしているとしたら、渋沢の言葉で言えばそれはまだ廓清の入り口にも立っていない、ということになる。自分で判断できますか、と問いかけたところで今日はおしまいにします。次回も「理想と迷信」章から、別の訓話を一緒に読み解いていきます。「論語と算盤を読み解く」でした。
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