
論語と算盤を読み解く
RIO
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えーと、今日はちょっと出かける前に、駅のホームで人を観察してたんですよ。で、なんとなく見てると、スマホで何か調べながら歩いてる人が、改札でそのままつまずいて、でも全然止まらずに歩き続けてて、まあそれ自体はよくある光景なんですけど、なんか「この人、今ちゃんと周り見えてるのかな」ってぼくはちょっと気になってしまった。脈絡のない話ですけどね。[pause] さて、今日の番組は「論語と算盤を読み解く」。今日扱うのは「人格と修養」の章で、渋沢栄一がここで繰り返し問うているのは、「才能とは何か」ではなくて、「才能ある人間がなぜ壊れるか、あるいはなぜ壊れないか」という問いだと、ぼくは読んでいます。今日の人物は松平定信、楽翁公。知名度はある人ですよね。寛政の改革の人として教科書に出てくる。ただ渋沢がこの人物を「偉人の実例」として持ち出した理由が、まあ面白くて。「才能があった人の話」として読むと、肝心なところを見落とす——とだけ言っておいて、まだ中身には入りません。
それじゃあ中身に入ります。まず原文の構造から整理すると、渋沢が描く定信像は三つの層になってるんですよ。才能の早熟、次に自己過信じゃなくて自己不信への気づき、そして短気という欠点の自覚と克服。この順番が大事で、渋沢が最初に評価しているのは、才能そのものじゃなくて、才能への「反応の仕方」なんですよね。原文でいうと、九歳の定信が周囲から褒められる場面があって、そこで「この称賛は阿諛だ」と気づく、という描写がある。九歳ですよ。それが渋沢にとって最初の評価ポイントになっている。[pause] でね、この訓話が現代でどう読まれているかというと、多くの場合「自分の未熟さを認める謙虚さが大事」という読み方になるんですよ。あなたもそう読んだかもしれない。ぼくも最初はそう読んだ。ただ、原文をもう一段読むと、定信の謙虚さは「自分を低く見せる振る舞い」ではなくて、「この褒め言葉の精度は信頼できるか」という、認知の問題として描かれているんですよね。情報として褒め言葉を疑える、という話で、現代組織でよく見る「謙虚さのパフォーマンス」とは構造が全然違う。「謙虚さのパフォーマンス」って何かというと、たとえば会議で「いやあ、ぼくなんかまだまだですよ」って言いながら、評価を下げないための防衛として機能してる、あれです。定信がやってたのはそれじゃなくて、「この称賛は本当か?」と自分で検証する行為なんですよ。「謙虚に見える人」と「褒め言葉の信頼性を自分で検証できる人」は、別物だというのがぼくの見立てです。でね、ここから先が渋沢が本当に言いたかったことだとぼくは思っているんですけど、定信は短気で怒りやすいという欠点を持っていた。それを侍臣の諫言によって克服した、と渋沢は語っている。ここで渋沢が強調しているのは「諫言を受け入れた」という事実ではなくて、「受け入れ続けた」というプロセスなんですよ。一度聞いたかどうかじゃなくて、行動パターンとして変わったかどうか、という話で。現代の実社会に引き当てると、たとえば上司からフィードバックを受けた直後に「おっしゃる通りです」と言える人は多いと思うんですよ、あなたの周りにもいると思うけど、その後の行動パターンが実際に変わっている人は、感覚的にかなり少ないんじゃないかとぼくは見てる。これはぼくの見立てに過ぎないんですけど、「受け入れた」と「変わった」って、本当に別の出来事なんですよね。渋沢が定信を「偉人たる所以」と言ったのは、才能への謙虚さにではなくて、「変わり続けた」という事実に対してだというのが、ぼくの読みです。それで全体を貫く渋沢の視線に戻ると、この章で渋沢は定信を称えているんだけど、才能を褒めてはいないんですよ。「才能があったのに壊れなかった人」として分析しているんです。才能ある人間が組織や社会で傲慢になる、あるいは停滞するパターンを、渋沢は自分の経験から当然知っていたと思う。だからこそ定信の「自己認識の精度」と「欠点の更新」の組み合わせに、価値を見ているんだとぼくは読んでいます。
定信の話を聞いて「自分も謙虚にしよう」と思うのは自由なんですよ、別にぼくはそれを否定しない。ただ、渋沢が本当に見ていたのはそこじゃないかもしれない。[pause] だから最後に問いとして残しておくと——あなたが今受け取っている「称賛」や「評価」、それ、本当ですか。一度でも疑ったことがあるか。そして、自分の欠点を「認識した」と「変えた」を、ちゃんと別の出来事として区別しているか。これはぼくにも刺さる問いなんですけどね。次回も「人格と修養」の章から一つ訓話を読み解きます。「論語と算盤を読み解く」でした。
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