
論語と算盤を読み解く
RIO
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えーと、今日ちょっと話す前に一個だけ言わせてほしいんだけど、最近ぼく、本を読むときに付箋を貼らない読み方を試してるんですよ。で、まあ、これが思ったより頭に残らなくて、なんか自分の集中力の問題なのか、方法の問題なのか、そのへんをずっとぐるぐる考えてる。あなたはどうですか、本に何か書き込む派ですか。まあそれは置いといて。今日は『論語と算盤』の「人格と修養」の章を扱う回です。で、この章に「人格の標準」というタイトルの節があって、渋沢がそこで出してくる答えが、読む前に想像するよりずっとシンプルで、でも同時にすごく誤解されやすい形をしている。そのシンプルさの中身を、今日は一緒に読んでいきます。
渋沢がこの節で言っていることの核を、まず正確に取り出すと、「人格の真価」の基準として彼が置いているのは富でも地位でも名声でもなくて、「徳を修め、智を啓き、世に有益な貢献をなし得る能力」なんですね。で、その根拠として孔子を引いてくる。孔子は位も財産もなかった。それでも後世の評価は圧倒的に高い。渋沢はこれを「世に尽したる精神と効果」が人物の大きさを決める証拠として使っている。さらに日本史からも例を出していて、藤原時平と菅原道真、足利尊氏と楠正成、それぞれ対比で出てくる。どちらのペアも、政治的に勝った側と負けた側がある。でも渋沢が見ているのは勝敗じゃなくて、後世がどちらを「人物」と呼ぶかという点なんですよ。 [pause] これを構造として読むと、渋沢はこの章で「評価の軸をどこに置くか」という話をしていると、ぼくは読んでいる。富貴や功名は結果として手に入る場合もある、でも渋沢が「能力」と呼んでいるもの、徳・智・貢献というのは、外から誰かが付与してくれるものじゃなくて、本人が毎回の選択を積み重ねることで形になっていくプロセスに近い。つまりこれ、静的な「人格の高さ」の格付けじゃなくて、動的な「どう動いたか、何を残したか」の評価基準なんですよね。渋沢の人格論は、状態じゃなくて運動の話をしている、という読み方をぼくはしています。 で、ここで一段めくりたいのが、現代でこの主張がどう骨抜きにされているか、という話で。「人格が大事、人格者であれ」っていう言説、あなたも職場や本でよく見ると思う。一見、渋沢の主張と同じに見える。でも実態を見ると、「人格者」ってラベルを貼られる人間が、どういう人かというと、穏やか、波風を立てない、コンフリクトを避ける、そういう人だったりする。それ、本当ですか、という話で。渋沢が道真や楠正成を「人物」と呼ぶ文脈を確認すると、彼らは政治的に敗れ、迫害され、不遇のまま死んでいる。外から見たら完全に「負け」です。つまり渋沢の人格評価軸は、周囲に好かれること、摩擦を避けることとは、むしろ逆方向に引っ張られることがある。「人格が大事」を「波風立てない人が偉い」と読むのは、この章の正反対の解釈になる。 [pause] じゃあ現代の実社会でどう見えるか、というと、たとえば組織の中で、数字の実績もなく、ポジションも高くないのに、判断の場面で一貫した軸を持って動いている人間がいますよね。短期的には「出世しない人」「目立たない人」に分類される。でも10年、20年単位で振り返ったとき、「あの人がいたから、あの局面で組織がおかしな方向に行かずに済んだ」という評価が、後から出てくることがある。これはぼくの見立てですが、そういう評価のタイムラグは、組織が小さいほど短くて、大きいほど長くなる傾向がある気がしていて、大きい組織だと下手したら本人の在職中に届かないこともある。渋沢が「世に尽したる精神と効果」と言うとき、その「効果」は本人が生きているうちに必ず現れるとは言っていない。孔子の例を使っていること自体、彼はそれを最初から折り込んでいると読める。
あなたが今いる場所で、「人格」を測る物差しは何になっていますか。渋沢の言う「貢献と精神」、つまり後から振り返ったときに何を残したか、というその軸が機能しているか、それとも「波風を立てない」「数字を持っている」「ポジションが高い」、そういう別の何かが実質的な物差しになっていないか。そこは一度、自分の組織や職場を見渡して確かめてみる価値がある問いだと思う。次回は同じ「人格と修養」の章から、渋沢が「習慣」について語る箇所を読みます。今日はここまで。番組「論語と算盤を読み解く」でした。
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