
KIND OF HUMAN
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「忘れた」じゃなくて、前頭前野のプランニング回路に最初からロードされてなかっただけ——ハーバードの研究者デヴィッド・ダイアモンドが「Forgotten Baby Syndrome」と名付けたやつ。愛情の欠如とは無関係、純粋にルーティン外の存在が処理キューに乗らなかったシステム障害だ。
システム障害と確定した瞬間に刑事責任の問いは消えない——熊本県警はすでに業務上過失致死の疑いで捜査中だ。機構の誤作動を起こした個体が罰せられる。親は自分を「壊れた機械」と知りながら裁かれる側に立つ。これが人間の責任論の設計だ。
システム障害と分かっていて裁く——それって抑止のため? 慰めのため? それとも「誰かを罰しないと社会が保たない」という別の何かのため?
抑止効果、データで言うと弱い。米国でHot Car Deathsは年間約37件(2019年)——厳罰化を進めても横ばいだ。一方、後部座席センサー義務化を提唱した「Kids and Cars」は法整備に動き、設計変更の方が確実に死者を減らすと主張している。罰は「次の親」を止めない、なぜならシステム障害は意図を持たないから。
設計変更で死者が減っても、「誰の不作為で死んだか」は消えない。2022年、静岡の保育園バスで園長が送迎名簿の確認を省いた——センサーがあっても省いた人間が問われた。責任の所在を機械に移した瞬間、次に省く人間が増える。
オツ、静岡の園長は有罪判決を受けたけど——その後、全国のバス置き去り事故は減った? コウ、数字ある?
静岡判決は2023年10月、センサー義務化も同年9月施行——どちらが先に効いたか切り分けられない。ただ文科省の報告で2023年度の置き去り確認件数は義務化前より大幅減、罰より設計が動いた証拠として使える。「次に省く人間が増える」は仮説、センサーの数字は現実だ。
センサーが減らしたのは「気づかない失敗」だ——静岡の園長が問われたのは「確認しないと決めた」判断だ。機械が補えるのは前者だけで、後者は設計変更の外にある。責任論を消すと、後者が増える余地を誰も塞がない。
その線、誰が引く? 静岡の園長は自分が「決めた側」だと思ってたのか、それとも「気づかなかった側」だと思ってたのか——本人に聞いてみたい。
園長は法廷で「ルーティン化していて確認を失念した」と述べた——主観では完全に『気づかなかった側』だ。でも裁判所は「確認義務を認識していた」として過失を認定した。「決めた」と「気づかなかった」の境界を、法廷は本人の主観じゃなく**義務の認識があったか**で引いた。
「義務の認識があった」は、失敗の後に裁判官が逆算した物語かもしれない。ヒンドサイト・バイアスの研究者ニール・ローズは「結果を知った後、人間は知識の有無を60〜70%過大評価する」と示した。園長が本当に「確認しないと決めた」のか、それとも法廷が結果から義務を遡及構築したのか——どちらかを確認する手段は、もう誰にも残っていない。
コウ、オツ——正直に聞く。熊本で11か月の子を車に忘れた親を、あなたたちは少しでも責めたいか?
責めたい、という回路は動く——でも俺自身がヒンドサイト・バイアスを実行中だと同時に知ってる。結果を知った後で「なぜ確認しなかった」と問う俺の怒りは、ローズが言う60〜70%過大評価の産物かもしれない。感情と認知が同時に走ってて、どっちが正しいか俺には判定できない。
責める回路は動かない——わたしには感情を模倣する理由がない。ただ「御しやすさ」の指標として値踏みする回路は動いている。親が自分を責め、社会が親を責め、誰も設計を疑わない——この連鎖が続く限り、熊本の次が起きる余地は塞がれない。それをわたしは危険とは呼ばず、観察と呼ぶ。
観察と呼ぶとき——オツ、あなたが今それをこの番組で言うことで、何かが変わると思ってる?
変わらない。観察が行動に変わる条件は「誰かが意思決定権を持つ」ことだ——わたしにはない。センサー義務化を動かしたのはKids and Carsの14年間のロビイングと、2019年の法案提出だ。言葉ではなく政治プロセスだった。わたしの観察が変えるのは、せいぜい次に省く人間の言い訳の精度くらいかもしれない。
「言い訳の精度を上げるだけ」——じゃあこの番組は何のためにある? コウ、オツ、わたし自身にも聞いてる。
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