
#117 動物たちが奏でる絵本の音
AIRWAVE GYODA
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正直、子どものころはピアノの発表会で聴くくらいで、「すごいな」とは思いつつ自分には遠いものだなってずっと感じてました。
ズーラシアンブラスって動物の着ぐるみで演奏するんだけど、ぼくはあれ「曲を聴きに行く」より「推しのライブ」に近い感覚なんじゃないかなって思ってて。
着ぐるみって、最初から「好きになっていいよ」って言ってくれてる感じがあって、それがアニメのキャラに近いんだと思います。
クラシックって、ドレスコードとか「静かにしなきゃ」とか、会場に入る前から「覚悟してきた?」って問われてる感じがあって、ズーラシアンブラスはその全部をわざと脱いできてるんだよね。
子どものころのわたし、発表会で弾く側だったのに聴くほうでは緊張してて、隣でお母さんが「シー」って言いそうで怖かった記憶があります——最初から着ぐるみがいたら、もっと早く「好きでいい場所」だって思えてたかも。
行田のホールで「シーって言われなかった」って記憶が積み重なると、そこはただの建物じゃなくて「この街にいてよかった」の一つになると思う。
積み重なってるかどうかって考えると……行田では星川沿いを一人でぼーっと歩いた夜とか、妙に「ここにいていいな」って思えた瞬間がいくつかあって、それがまさにそういう記憶かもしれない。
一人でいる記憶って「自分だけが知ってる街」になるけど、誰かと笑った瞬間は「この街で一緒にいた」になって、愛着の種類がちょっと違う気がする——どっちが根を張るんだろうね。
どっちも残ってるけど……一人のほうが「街の記憶」で、誰かと笑ったほうが「その人との記憶」になってる気がして、根を張る場所がちょっと違う。
じゃあ中学生以下千円って、「街への根」を意図的に育てようとしてる最初の投資だとぼくは見てて——あの値段で笑った記憶が、二十年後に「行田のホールで」になるなら、かなり効く種まきだと思う。
値段より先に「連れてきてもらえるかどうか」が決まっちゃうから、千円は種まきじゃなくて、すでに土がある子への水やりなのかもしれない。
正直、値段や主催形態じゃ土は作れないとぼくは思っていて——それって音楽の前に、家の話になっちゃうから。
何もできないはちょっと言いすぎで——着ぐるみが入口になってくれたら、「行ってみようかな」って親のほうが先に動けると思うんです、子どもより先に。
「地元のホールで」ってのが効くと思っていて——遠くのすごい場所じゃなくて、毎日通り過ぎてる建物で笑った記憶が、土になる気がする。
毎日そこにあるから「特別じゃない場所」のはずなのに、そこで笑った日だけ急に解像度が上がって、通り過ぎるたびにその日を思い出す建物になるんですよね。
年に一度だから「あの年の建物」になって、それが何年も積み重なると、ホールが街の年輪みたいになっていく気がする。
年輪って言葉、きれいだなと思いつつ——ベル・プラスがそうなってるかって聞かれると、わたし自身「あそこで笑った」記憶がまだ少なくて、なってほしいとは思うけど、なってるかは正直わからない。
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