
論語と算盤を読み解く
RIO
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えーと、最近ちょっと気になってることがあって。財布を新しくしたんですよ。で、レジで小銭を出す時に、一円玉とか五円玉を「まあいいか」って感じで雑に扱ってる自分に気づいて、あ、これはいかんなと思ったんですよね。別に節約がどうとかじゃなくて、なんか金に対する態度として、それでいいのかっていう感じがした。まあ、そこから今日の話につながるんですけど。今日は『論語と算盤』の「仁義と富貴」という章を扱います。渋沢が「金とは何か」を正面から論じている章で、ぼくはこれ、かなり真剣に書いた章だと思っている。「貯めなさい」でも「使いなさい」でもない、その第三の話です。集めることと散ずることが、実はひとつの動きだという構造がある。その話を、今日はちゃんと読んでいきたいと思います。
まず、この章で渋沢が何を言っているかを押さえておきたいんですけど、出発点がちょっと意外なんですよ。「金は大事だ、その価値を認めることは正当だ」という肯定から始まっている。道徳の話をする人間が、まず金を肯定する。これ、渋沢の面白いところで、きれいごとで始めていない。で、その上で、金の扱い方として二つのパターンを否定します。吝嗇、つまり貯めこんで動かさない状態と、濫費、つまりとにかくばらまく状態、その両方をだめだと言って、「集めながら散ずる」という動的な状態を理想として置いている。ここで言う「動的」というのは、金が循環している状態のことで、片方だけでは成立しないというのが渋沢の論の骨格です。[pause] で、この章にギルバルトというイギリスの銀行家の話が出てくるんですが、道で落ちているピンを拾う習慣を持っていた人で、その姿勢が大きな財をなすことにつながったという話として引用されています。ただ、これを「節約の美談」として読むのは、ぼくはちょっと違うと思っていて、渋沢が強調しているのは節約の技術じゃなくて、金に対する一貫した敬意の話だと読んでいる。一円玉を雑に扱う組織が、大型の予算案になったとたんに急に慎重になるっていう場面、あなたも見たことあるんじゃないかと思うんですよ。渋沢の言う理財家はその逆で、細かいものへの姿勢が大きな判断の精度にそのままつながっていくという立場をとっている。金額で態度が変わる人間は、渋沢の基準ではそこに届いていない、ということになります。で、ここで一段めくって考えたいのが、現代で「散ずる」という言葉がどう使われているかという話です。この訓話が引用されるとき、「散ずる=投資や寄付をしましょう」という文脈で使われることが多い。でもぼくが読む限り、渋沢が言う「散ずる」は、もっと公的な性格を帯びていて、社会の循環に金を戻す責務として語られています。「したい」じゃなくて「すべき」の話として書かれている、というのがぼくの読み方です。[pause] 現代の実際の話をすると、手元に潤沢なキャッシュを抱えながら「慎重な経営」として温存し続けている組織って、ありますよね。自分では堅実だと名乗っているんだけど、渋沢の言葉を使えば、それは吝嗇に近い状態だということになる。一方で、IR資料や広報で社会貢献を前面に出しながら、実態は評判を守るための支出になっているケースがある。これは「散じているように見せる」であって、渋沢が言う散ずるとは別物だとぼくは見ている。渋沢の散ずるには、社会に返すという方向性と、金を死なせないという機能の両方が含まれていて、どちらか一方だけでは渋沢の言う理想には届かない。それ、本当ですか、と問われたら、ぼくも確信はないけれど、少なくともテキストの読み方としてはそうなっていると思う。最後に、渋沢がこれを青年への戒めとして書いているというのは意味があって、若い時期は濫費か吝嗇かどちらかに偏りやすいという観察が背景にあります。ただ、これは年齢の話というよりも、金を扱う経験値と構造理解の話として読んだほうが、現代には使えると思っています。二十代の経営者でも集めながら散ずるを実践している人はいるし、六十代でも怖くて動けないままという人はいる。だから「青年」というのは年代ではなく、金と向き合う段階の話だとぼくは読んでいます。
まあ、今日はこんなところですけど。「集めながら散ずる」を本当に実践している人や組織が、あなたの周りに実際にいるかどうか、ちょっと見てほしいんですよ。散じているように見えて、実は評判管理のための支出になっているのか。集めているように見えて、実は怖くて動けないだけなのか。その区別ってどこでつくんだろうというのが、ぼくが今日置いていきたい問いです。次回も引き続き「仁義と富貴」の章を読んでいきます。今日は「論語と算盤を読み解く」でした。
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