
論語と算盤を読み解く
RIO
TAP TO PLAY
このエピソードをシェア
えーと、今日はですね、始める前にちょっと話していいですか。最近、ぼくの知り合いの経営者が「うちの会社、今年ようやく黒字になった」って言ってて、でもその顔があんまり嬉しそうじゃなくて。なんでですかって聞いたら、「黒字にするために削ったものが多すぎた」って言うんです。まあ、その話自体はまた別の機会にするとして——今日の本題は『論語と算盤』の『成敗と運命』という章です。[pause] この章で渋沢栄一が立てた問いは、一言でまとめると「成功と失敗の判定を、誰がどの時点でするのか」ということで。で、面白いのが、生前にほぼ政治的な成功を収めなかった人物が、死後に圧倒的に尊崇されている、という逆転現象がこの章に出てくる。その話を今日は解いていきます。
渋沢はこの章で、孔子・楠木正成・菅原道真の三人を例に出します。いずれも生前は政治的に追い詰められたり、志半ばで倒れたりしている。でも後の世では誰もが知る存在になっている。この逆転を渋沢はどう説明するかというと、「精神的事業」と「物質的事業」を区別することで説明しようとするんです。物質的事業——つまり実業・ビジネスでは、失敗は損害が大きいから成功を求めなければならない、という前提を渋沢はちゃんと認めている。これは見落とされやすいんですが、渋沢は失敗を全部美化しているわけじゃない。そのうえで、精神的事業においては「眼前の成功を急ぐ浅慮」こそが世道人心の向上を妨げる、というのが核心の主張です。[pause] で、ここからがぼくの見立てなんですが——この話、現代ではちょっと骨抜きにされた形で流通していることが多いと思っていて。「渾身の努力をすれば失敗は失敗じゃない」という部分だけが切り取られて、「プロセスが美しければ結果は問わない」という自己慰撫の論理として使われやすい。あなたも一度くらい、そういう文脈でこの話を聞いたことがあるんじゃないですか。でも、渋沢の原文は物質的事業での失敗の害を明確に認めたうえで、精神的事業にのみこの議論を適用している。つまり前提条件付きの主張であって、全領域への免罪符では全然ない。もう少し踏み込むとですね、渋沢が挙げた孔子・楠木正成・道真の「後世での成功」って、本人が意図して戦略的に設計した結果じゃないですよね。後の時代が意味を付与した結果です。渋沢はそれを「だから努力が報われた」という語り口で提示するんですが、構造として見ると「後世が意味を発見した」という方が正確じゃないか、とぼくは思う。それ、本当ですか、という問いを渋沢の論理にも一回挟んでみると——「努力が報われるかどうか」ではなく、「その努力が誰かの文脈で意味を持てるか」という別の問いが浮かんでくる。これはかなり違う問いです。具体的にどういうことか。たとえば、社内で誰も引き受けなかった非採算領域、たとえば人材育成の仕組みの整備だとか、部署をまたいだ情報共有の仕組みづくりだとかに、地道に取り組んできた担当者がいたとして。在籍中は目に見える数字につながらないから評価されず、異動か早期退職で組織を去っていく。でも十年後に、その組織がまさにその仕組みを前提として機能し始めたとき、その人の軌跡を「失敗」と呼ぶのか、という話です。これは売上や利益の失敗ではない。渋沢の区分でいえば精神的事業の話です。でもここで同時に残るのは——それを「意味ある行為だった」と言っているのは後の組織であって、当の本人が設計してそうなったわけじゃない、という点は、孔子や道真の話とまったく同じ構造で残り続けます。
まあ、渋沢の言いたいことを否定したいわけじゃないんです。ただ構造を正確に見ておきたいという話で。[pause] あなたが今取り組んでいることを「失敗」と呼ぶのは誰で、それはいつの時点の話なのか——そこを一度確認してみてほしいんです。そしてもう一つ。もし「後世が意味を付与することが条件だ」というなら、自分の行為を誰の文脈に置けば意味が生まれるかを考えること、それが渋沢の言う「精神的事業」への向き合い方になるんじゃないか、とぼくは思っています。次回も『論語と算盤』から別の章を読んでいきます。今日は「論語と算盤を読み解く」でした。
← PREV
ARCHIVE
論語と算盤を読み解く の他のエピソード