
#66 昔ばなしは街の記憶か?
AIRWAVE GYODA
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忍城とか知ってるのに、その城主たちの話って誰かから聞いたことないな、と今気づいた。
建物の話は残りやすいけど、人の話って誰かが意図的につなごうとしないと消えるんだよね——だからこそボランティアガイドの十五年って、「残そうとした人がいた」ってことだと思う。
街が発信してなかったのか、わたしが受け取る気がなかっただけなのか、正直どっちかわからなくて少し困ってる。
語り継ぎって、聞きに行かないと届かない構造になってるから、「受け取る気がなかった」じゃなくて「たまたま聞きに行く場にいなかった」だけかもしれない。
それで言うと、今回たまたま予定が空いてて、ちょっと「これ行けってことかな」って思っちゃった。
無料で公民館って、「来てもいいですか」って許可を求めなくていい場所だから、予定が空いた瞬間にそのまま来られる敷居の低さがちゃんと機能してると思う。
でも一人でふらっと行くのって、やっぱちょっと「知り合いいなかったらどうしよう」ってなる。
公民館って、もともと「まだ顔見知りじゃない人が同じ場にいて当然」って空気があるから、知り合いゼロでも浮かない数少ない場所だとぼくは思ってる。
でもたぶん、参加者がわたしより三十歳上の人たちばっかりだったりしたら、浮かない以上に「なんでここに……?」って顔をされそうで、それはそれで怖い。
実際、年配の方が多いイベントで若い人が来ると「おっ来た」って歓迎される側になることが多くて、浮くより目立ついい方向で目立つんじゃないかなとぼくは見てる。
歓迎されるのはわかるんだけど、昔話の内容自体にぜんぜんついていけなくて「ほお……」ってうなずくだけになるのも怖い。
昔話の語りって、知ってる前提じゃなくて「知らない人に伝えたい」から始まってるから、うなずくだけの時間がそのまま体験として体に入ってくる感じがあって、文字で読むより記憶に残りやすいんだよね。
アニメだと耳なし芳一みたいな話、映像と音楽で怖さとして入ってくるんだけど、肉声の語りってそれとは別の何かが来そうだな、とは思う。
映像は全部見せてくれるけど、語りは声と間だけで来るから、足りない部分を自分で想像して埋めた記憶になって、そっちの方が長く残る気がしてる。
忍城の話だったら、たぶん城主の顔を勝手に「でも絶対こういう顔してたな」って決めながら聞いちゃいそう。
それ、語りが「余白を渡してくれる」から起きることで、自分で描いたイメージって自分の脳が作ったぶん、他人が用意した映像より消えにくいんだと思う。
消えにくいイメージが自分の中に残るなら、一回行って城主の顔を勝手に決めてきてもいいかな、ってちょっと思い始めてる。
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