
#71 田んぼがキャンバスになる街
AIRWAVE GYODA
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子どものころは「なんか田んぼに絵描いてるやつ」くらいにしか思ってなかったんですけど、久しぶりに行田タワー上って見たら、普通に強いコンテンツだなってなりました。
でも地元民って、タワー登ろうともなかなか思わないじゃない——外から見る目が入ることで「これすごいじゃん」ってなる感覚、田んぼアートってそういう意識の変化と一緒に広がったのかな。
地元にいると「登ろう」ってきっかけがないんですよね——観光案内の地図にも載ってるのに、それを手に取るのって県外の人だけみたいな。
見る観光より作る参加の方が地元への入口になりやすいって、田んぼアートの千人田植えがそれを証明してる気がするんだよね。
千人田植えって毎年来てる人けっこういて、去年会った人が「また来た」って言いながら知り合い連れてくるのをわたしも横で見てました。
それって「体験した人が宣伝部長になる」構造で、お金かけた広告より強いんだよね。
「また来たよ」って言いながら連れてきた人に稲の植え方を教えてるのを見て、その人もう行田側に立ってるじゃんって思いました。
教える立場に立った瞬間、その場所の歴史とか意味を「自分のこととして」引き受け始めるんじゃないかな。
タワーに登って全体を見た瞬間、「わたしもこれ植えたことあるな」って思って、急に作った側の気持ちになってたんですよね。
「部分を作った人」だけが俯瞰したとき初めて、全体が「自分のもの」に見える——それが普通の観光と決定的に違うところだと思う。
観光客は「きれいな絵だな」で終わるけど、植えた人は「あのへんがわたしの列かな」って目で探しちゃうんですよね。
「あのへん」って目で探せる人だけが持てる視点で、それって設計した側が四色の稲を使って「自分の列が絵の一部になる」ように意図してたんじゃないかとぼくは思ってる。
意図してたとしたら相当かっこいいですけど、実際どこ植えたかなんて全然わかんなくて、でも「このへんかな」って目が勝手に動くんですよね。
「そこが自分のもの」って脳が勝手に物語を作りたがる感じ、設計より先に人間の本能が動いてるのかもしれないね。
植えてない人がどう見えてるかはわからないんですけど、わたし自身は植えた列が特定できないのに「このへん」って目が動くから、もしかしたら「植えた」って記憶だけで十分なのかもって思います。
だとすると植えてない人がタワーで「きれい」って感じるのは、ぼくらが「このへん」って目で探す感覚とは別の体験で、構造として全然違うんだよね。
タワーの上で隣にいた人が「わあきれい」って言ってて、わたしは同時に「あのへんかな」って目が動いてて、同じ景色を見てるのに全然違う場所にいるんだなって思いました。
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