
論語と算盤を読み解く
RIO
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こんにちは、論語と算盤を読み解く、始まります。えーと、今日はね、ちょっと朝から不思議な気分でいて、というのも、久しぶりに昔の仕事仲間と話す機会があって、そのひとが「最近ずっと逆境でさ」って言うんだけど、話を聞いてると収入も安定してるし、仕事も続いてる。でね、「それ、本当ですか」ってぼくは思ってしまったわけで——まあそのエピソード、今日の話と地続きだったので、ちょうどよかった。[pause] 今日扱うのは、渋沢栄一の『成敗と運命』の章です。「逆境」と「順境」という二つの境遇が、いったいどこから来るのかを渋沢は問うているんだけど、一見すると運とか環境の話に見えて、渋沢の答えはそこにない。その中身は、もう少しあとで。まず一拍だけ、置かせてください。
じゃあ、本編に入ります。渋沢がこの章で言っていることの核心は、まあ一言でまとめると、「順境も逆境も、外から与えられるものじゃなくて、自分の智能と勉強によって造り出すものだ」ということで、でね、これだけ聞くと「努力主義の話か」って思うじゃないですか。ぼくも最初そう読んだんですが、もう一層あって。渋沢はここで韓愈の詩を引いてくるんです。「木之就規矩、在梓匠輪輿」——木材が規矩、つまり定規やコンパスに合った形になるのは、大工や車輪師の技があるからだ、という比喩で、素材だけじゃ形にならない、加工する技術と努力の両輪がいる、という構造を言っている。これは面白いと思っていて、才能だけでも、努力だけでもなく、その掛け合わせで初めて形になる、という話をしてるわけです。[pause] ただ、ここで止まると渋沢の主張の半分しか取れない。渋沢はちゃんと限定条件を置いていて、「才能と努力が完備していても、志が行われない場合のみが真の逆境だ」と言っているんですね。これ、結構大事な絞り込みで、逆境の定義が「外的な失敗」や「貧困」や「不遇」じゃなくて、「内的な志の不達成」に置かれてる。つまり、外から見た成否と、渋沢が言う順境・逆境は、かなりズレることがある。あなたが「逆境だ」と感じている状況と、渋沢の定義する逆境が、同じとは限らない、ということです。で、これが現代でどう使われてるかというと——「逆境は自分が招いた結果だ」という、いわゆる自己責任論の根拠として引かれるパターンがある。でも渋沢の論理はそこまで単純じゃなくて、才能と努力が揃った上でもなお志が通らない状況を「真の逆境」と呼んでいるわけで、努力が足りないひとを責める道具じゃなくて、「それでも動けているか」を問う基準として設定されてる。自己責任論として使うと、才能と努力の前提条件ごと省略されるんですよね。渋沢はその前提を丁寧に置いているのに。たとえば、技術力もあって長年現場で経験を積んできたエンジニアが、組織の意思決定の輪の外に置かれ続けるケース——スキルは確かにある、勉強も続けている、でも自分が何を作るかを決める席にいない、志が行われない状態が続いている。外から見れば「安定した職についている」ように見えても、渋沢の定義ではこれが「真の逆境」にあたる可能性がある。逆に、事業が一時的に失敗して数字が悪化していても、志の実現に向けて判断し、動き続けている状態は、渋沢的には「逆境」とは言わないかもしれない。成功しているから順境、失敗しているから逆境——という外形で判断している場面が、現代には多い。それが、ぼくには少し気になっている。渋沢自身、幕末から明治にかけて、一橋家に仕えた時期にも、フランス渡航後に幕府が消えた局面にも、複数回「志が行われない」状況に立たされた人物で、彼がこの定義を採用しているのは、外的な評価軸に引っ張られずに動き続けるための、自分自身への論理的な土台だったと、ぼくは読んでいます。
今日は渋沢の『成敗と運命』を読んできました。で、最後に一つだけ置いていきたいのは——今、あなたが「逆境だ」と感じているとしたら、それは外から見た状況の話ですか、それとも志が行われていないという意味での逆境ですか、どちらだろう、という問いで。順境・逆境の定義を自分のどこに置くか、それ自体がすでに一つの選択だと、ぼくは思っています。[pause] 次回も論語と算盤の別の章を扱います。また聴いてください。論語と算盤を読み解く、でした。
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