
論語と算盤を読み解く
RIO
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ちょっと前に、実家に帰る機会があって、まあ久々に親と飯を食ったんですけど、気がついたら、えーと、普通に親の話を途中で遮って自分の話してたんですよね。で、帰り道に「あれ、ぼく孝行な子どもだったっけ」ってなんとなく気になりはじめて。まあそのタイミングで今日の話を読んでたので、ちょうどよかったというか、ちょっと耳が痛かったというか。[pause] 今日は『論語と算盤』の「教育と情誼」という章を扱います。渋沢がこの章で何を問いにしているかというと、「人をどう育てるか」という話より前に、「人と人の間にそもそも何があるのか」という問いを先に置いているように読めます。で、今日取り上げるのは、その入り口の一つとして、ちょっと変な話があって——孝行らしい孝行が、実は孝行じゃない、という話。詳しくは本編で。
まず話の構造を確認しておきます。近江の孝子と、信州の孝子、二人が登場します。近江の孝子が信州を訪ねたら、信州の孝子が自分の母親に対して、見た目にはずいぶん無遠慮な振る舞いをしていた。要求が通らなければ不満を口にする、というような場面だったらしい。それを見た近江の孝子が「これが孝行者のすることか」と驚く、という構造です。で、そこに対する信州の孝子の答えが面白くて——「孝行をしようとしての孝行は、真実の孝行とは言われぬ」という一言を置いています。渋沢の読み取りでは、努力して演じている孝行は、親との関係を「施す側と受け取る側」に分割してしまう、ということになる。親の思いやりをそもそも信頼していて、自然のままに応じることが孝の大本だ、という話です。[pause] ただここで、ぼくは少し立ち止まりたくて。この訓話、現代では「無意識でやれることが本物」という意味に短絡されやすいと思っています。「意識しなくていい」「気負わなくていい」という話として受け取られがちで、それ、本当ですか、と言いたくなるんですよね。信州の孝子が言っているのは「無神経でいい」ということじゃない。あの無遠慮が成立しているのは、その前に積み上げてきた親との信頼と相互理解があるからで、つまり「意識しなくていい」という状態は、長い関係の結果として生まれるものです。最初から「気にするな」という話ではない。で、これの現代的な誤用として、ぼくがよく見るのは——職場で「自然体でいこう」「型にはまるな」と言いながら、関係を積み上げるプロセスをすっ飛ばして馴れ合いを正当化するパターンです。入社して間もない人間が「うちはフラットだから」と言われて、先輩に「それ違うと思います」と言いはじめる、みたいなやつ。外から見ると似ているかもしれないけど、信州の孝子とは全く別の話で、あれは単に関係の土台がないまま形式だけ省いている状態です。渋沢が言っているのは「意識の放棄」ではなくて、「関係が深まった先で、意識が溶ける」という段階の話だと読んでいます。実社会で言えば、たとえば長く一緒に働いてきた上司と部下の間で、部下が「その判断は違うと思います」と遠慮なく言える場面、あれを外から見ると礼儀がないように映ることがある。でも当事者の間には、何年もかけて積み上げてきた文脈がある。だから形式が要らなくなっているんです。逆に、関係が浅い段階でいきなり「フラットにいこう」と演出しようとすると、それ自体がパフォーマンスになる。やっていることが、近江の孝子が批判した「孝行をしようとしての孝行」と同じ構造になってしまいます。最後に渋沢がこの話をどこに置いたかという話をしておくと、「教育と情誼」という章に置いています。情誼というのは、情と義理の積み重ね、という意味合いの言葉です。孝行の話を、家族だけの話として読むのではなく、人間関係の普遍的な構造として置いている節がある。親子でも、組織でも、「関係の深度」と「振る舞いの自由度」はセットで動く、という観察として読むことができると、ぼくは思っています。
あなたが今、誰かとの間で「自然にやれている」と感じている関係があるとしたら、その前にどれだけの積み上げがあったか、ちょっと確認してみる価値があるかもしれない。一緒にいる時間の長さじゃなくて、積み上げの質の話ですね。「意識しなくなった」のは、信頼を積んできた結果なのか、それとも最初から意識していないだけなのか——どちらかによって、その関係の意味はかなり変わってくると思います。[pause] 次回も「教育と情誼」章の別の訓話を読み解いていく予定です。今日は「論語と算盤を読み解く」をお聴きいただきありがとうございました。
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