
論語と算盤を読み解く
RIO
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えーと、今日ね、収録前にちょっと古い棚を整理してたんですよ。そしたら大学時代のゼミのレジュメが出てきて、まあそれが今の自分の関心とほぼ同じテーマを扱っていて、少し驚いたというか——あの頃からそういうことが気になってたんだな、とちょっと照れた感じで [笑] 。今日はそういう話とも少し繋がる章を読んでいきます。「教育と情誼」章の、「偉人と其の母」。母親の話、と聞くと感動エピソード集みたいなイメージがあるかもしれないけど、渋沢がここで立てている問いは、ぼくが最初に読んだときに思ったのとは少し違う場所にあって、そこが今夜の核心になります。
まず原文の骨格から押さえておきます。渋沢はこの章で、孟母三遷の話、ワシントンの母、楠正行の母つまり楠木正成の妻・久子の話、中江藤樹の母の話、こういった「賢母」の例を複数並べていくんですよ。で、そこから導く主張が「優秀な人材には賢明な母親がいた例が非常に多い」——この流れだけ取り出すと、賢母礼賛の話に見える。実際、この章の言葉はそういう方向に切り取られて、近代日本の「教育ある良妻賢母」論を補強する文脈で使われた歴史がある。ぼくはそこに少し、読み手の都合を感じるというか。 [pause] さらに渋沢は続けて、明治以前の日本の女子教育を批判するんです。何を批判するかというと、貞操・従順といった「消極的な精神教育」に偏っていた、知恵や学問を奨励しなかった、という点。で、結論として、男女は同等の価値を持つべきで、女子への適切な教育は国家の人的資源の半分を活用することになる、と言う。この結論自体は今の感覚でも、まあ妥当だとぼくは思います。ただ、論理の順番が重要で、ここをちゃんと追わないと全体の意味が変わってしまう。渋沢の順番は「賢母がいれば偉人が育つ、だから女性を賢母に育てよ」じゃない。「女性が本来持つ知的能力を社会が封じてきた、その結果として賢母も希少になった、これは国家的な損失だ」という順番で動いている。主張の射程は「母」の役割論じゃなくて、女性の能力を潰してきた教育制度・社会構造への批判なんです。で、ここが面白い逆説で——「良妻賢母のための女子教育」として後世に骨抜きにされた読まれ方って、渋沢がまさに批判した構造とほぼ同じなんですよ。批判の対象と同じことを、批判の言葉を借りてやってしまった。 [pause] 現代の組織でも似た構造があって、あなたの周りでも思い当たるところがあるかもしれないけど、たとえばある職場で「女性リーダー育成プログラム」が走っていて、でもその中身が「管理職になっても周囲と摩擦を起こさない振る舞い方を学ぶ」という内容に偏っているケース。会議での発言の仕方とか、フィードバックをどう受け取るかの練習とか、そういった内容が中心になっている研修です。能力を伸ばすのではなく、摩擦を減らす方向に調整している——これ、渋沢が言う「消極的な精神教育」と形は違うけど、本質は近いとぼくは見ている。ただ、渋沢自身の論にも限界があって、それは踏まえておく必要がある。渋沢の言葉は「賢母」という役割枠の中で女性の能力を語っていて、女性が母親以外の文脈で社会に出ることへの言及は薄い。時代の制約はあるにしても、その枠の外まで問いが届いていないのは事実で、ぼくはそこを自分の中では割り引いて読んでいます。
渋沢がこの章で問っていたのは「誰を賢母にするか」じゃなくて、「なぜ能力がそもそも封じられてきたか」という構造への問いだった、とぼくは読んでいます。それ、本当ですか——と問い返したいのは、今日あなたの周りで「女性活躍」と呼ばれている取り組みが、どちらの問いに答えようとしているか、ということです。能力を伸ばす設計になっているか、それとも摩擦を減らす設計になっているか——研修のカリキュラムでも、評価基準でも、採用の基準でも、手近なところでいいので少し見てみてほしい。次回は「教育と情誼」章の別の訓話に入る予定で、また違う角度から渋沢の問い方を見ていきます。番組「論語と算盤を読み解く」でした。
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