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論語と算盤を読み解く
EPISODE· 2026年10月7日

論語と算盤を読み解く

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今日ね、収録前にちょっとだけ散歩してきたんだけど、駅前のコンビニで「〇〇大学合格応援フェア」みたいな棚が出ていて、まあ季節だなと思いながら、なんか妙に今日の話と重なるな、と感じたのでそこから入らせてほしい。今日は「論語と算盤」の「教育と情誼」章に入る。渋沢が教育を話題にする、というのは、最初ちょっと意外に見えるかもしれない。経済人が教育論?みたいな。でもぼくの読み方だと、渋沢はそもそも人材論と組織論と教育を一続きのものとして捉えていて、切り離して考えるという発想がない人なんだよね。今日のキーワードとして「人物過剰」という言葉を先に置いておきたい。「人が多すぎる」という意味じゃない。「特定の型の人物だけが溢れている」という状態を指している言葉で、それ、本当ですか、と渋沢に聞いてみたくなる問いが、この章には詰まっている。

reading

渋沢が「人物過剰」と言うとき、指しているのは人口の多さじゃなくて、同じ型の人間が量産されている状態のこと。で、その原因として渋沢が名指しするのが「詰込主義の智識教育」という言葉で、精神修養を省いたまま知識だけを詰め込む教育のことを言っている。結果として何が起きたかというと、上流の、要するに白襟を汚さないような仕事を望む人間だけが増えて、いわゆる「下賤な仕事」に就く人間が減った、というわけ。渋沢はここで寺小屋の時代を引き合いに出している。でもこれ、寺小屋を美化しているというよりも、えーと、ちょっと違う読み方ができると思っていて、教科書の種類が少なかったにもかかわらず、あるいはだからこそ、学生が自分の適性に応じて進路を選んでいた、という事実を指摘しているんだよね。制約があったから多様性が生まれた、という逆説的な構造で、これはぼくには興味深い観察に見える。[pause] で、渋沢は「九十九人の普通的人物を造る」という方針そのものは否定していない。問題は「その精神を誤った」という点にある。方針は正しい、でも運用が狂った、という言い方をしている。これを現代に重ねると、あなたの会社や職場で「多様な人材を求めています」という採用方針を見たことはないか。言葉だけ見ればまっとうだよ。でも採用の現場で実際に何が起きているかというと、想定の枠から外れた答えを出した人が落ちていく、という場面はそれほど珍しくない。「自分の言葉で語れる人材が欲しい」と言いながら、想定回答から大きく外れた応答に対して面接官がフリーズする、というのは、採用に関わったことがある人なら一度は見ているんじゃないか。渋沢の言う「精神を誤った」はまさにこれで、言葉は変わった、方針も変わった、でも評価する側の目線が変わっていないから、出口に集まる人物の型が結局変わらない、という構造になっている。つまり「九十九人の普通的人物を造る」弊害の本体は、制度の設計よりも、評価する人間の視点が均一に揃ってしまっていること、そこにある、というのがぼくの読み方。[pause] もう一個、渋沢が「下賤な仕事」という言葉を使う場面について触れておきたい。渋沢本人は農家の出身で、武士的なキャリアの外側から事業を起こした人間だから、この言葉を使うとき、見下しているというより、そこに甘んじられる人間が社会から減っていくことへの危機感として読む方が文脈には合っている。社会の実需と、人が集まる場所のミスマッチ。これは渋沢の時代だけの話じゃなくて、構造として繰り返されるパターンで、たとえば介護・物流・農業といった分野の人手不足と、都市部の特定職種への過密が同時に起きている現在の状況を見ても、同じ図式がある、と思っている。

closing

最後に問いとして置いておきたいのはこういうことで、あなたの職場や組織で、「多様な人材を求める」という言葉は使われているか。使われているとしたら、実際に評価されて上に行く人の型が、本当に多種多様かどうか、ちょっと思い浮かべてみてほしい。渋沢の言う「精神を誤る」は、意図的な裏切りじゃない。気づかないうちに起きる、というのがたぶん厄介なところで、言っている言葉と、選んでいる行動が静かにズレていく。そのズレを誰も指摘しないまま、組織の型だけが強化されていく。次回は「教育と情誼」章の続きで、渋沢が情誼という言葉をどう扱うか、そこに入っていく予定。ここまで聴いてくれてありがとう。「論語と算盤を読み解く」でした。

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