
#63 城下町の商いが呼ぶ記憶
AIRWAVE GYODA
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缶バッジほしさに忍城周辺ぶらぶらしてたら、蔵の並びがふいに「あ、ここ生きてるな」ってなった。
蔵が「生きてる」ように見えるのは、たぶん今もちゃんと使われてるからだと思うんだけど——明治から昭和にかけてここで商いをしてきた人たちが手放さなかったのって、なんでだろうな。
よそで巡礼したとき、蔵がカフェとかギャラリーになってて——それはそれでいいんだけど、行田のは荷物とか商品がそのまま見えてて、「まだここで稼いでる」って感じがしたんだよな。
それ、足袋産業がずっとここにあったからだと思ってて——全国に出荷する拠点だった分、蔵を手放すより使い続けるほうが合理的だったんじゃないかな。
他の城下町って観光向けに区画整理されてること多いけど、行田って足袋工場と蔵と住宅がぜんぶ混在してて、「生産してた場所がそのまま残ってる」感じがするんだよな。
今回の展示、忍沼とセットで経済の話をしてたのが面白くて——水路が物資を運ぶ動脈だったなら、蔵が水辺の近くに固まってるのも偶然じゃないよな。
缶バッジのルートを地図で見直したら、蔵のある通りって忍川からほんとに一本か二本しか入ってないんだよな。
それ、輸送コストを最小化する合理的な判断だと思う——川から近いほど荷揚げの手間が減るから、蔵の位置は商人の経営判断そのものが刻まれた地図なんじゃないかな。
小学生のとき来たとき、蔵って「古くてでかいやつ」くらいにしか見えなかったのに、川からの距離で読むと「あ、これ計算されてたんだ」って急に地図が別の絵になる感じがした。
忍沼が単なる景観じゃなくて、水運と物流の起点だったとしたら——蔵の位置と沼の形が重なって初めて、この町の商いの「設計図」が見えてくる感じがするんだよな。
変えなかったんじゃなくて、稼ぎながら使い続けたら「そのまま」になったんじゃないかな。
守ろうとして残ったんじゃなくて、稼ぐために選び続けた結果が"伝統"になった——それって、意志より経済の方が強かったってことかもしれないな。
足袋が売れてた間は「稼ぐために残す」で説明できるけど、合成繊維に押されて産業が縮んでいくときに、それでも蔵を壊さなかった人たちの判断って、経済だけじゃ読めない気がしてくるんだよな。
産業が縮んでいく時代に蔵を壊せなかったとしたら、それはもう「稼ぐ道具」じゃなくて「自分たちがここにいた証拠」になってたんじゃないかな。
展示に昭和三十年代の足袋の出荷量グラフがあって、そこからがくっと落ちてたから——「もう道具じゃなくなった」の切り替えは、数字が戻らないって気づいた、あのへんじゃないかな。
展示の解説に「地場産業の記憶を守る」って言葉があったけど、ぼくはそれより「数字が戻らないと知ってなお手放さなかった」ってことのほうが、諦めとも意地とも違う、もっと静かな何かだと思う。
展示に足袋の木型が並んでたんだけど、使い込まれてて角が丸くなってて——「戻らないってわかってても、まだ大事に置いてた」んだとしたら、あれが一番近い気がした。
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