深夜の、それでいいんじゃないか
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EPISODE· 2026年6月28日

深夜の、それでいいんじゃないか

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opening

えーと、きょうわ、まずどうでもいいはなしからはじめていいですか。さいきん、コンビニのセルフレジで、バーコードをなんどスキャンしてもみとめられなくて、けっきょく「てんいんをよぶ」ボタンをおして、てんいんさんがきてぼくのてをのかせてからおなじどうさをしたら、いっかつで通ったんですよね。あれ、なんなんですかね。おなじひとがおなじうごきをしているのに、ぼくのほうがみとめられないっていう。まあ、それわ本題じゃないんですけど。でね、こういうどうでもいいことをかんがえているじかんに、なぜかべつのことが気になりはじめることがあって、きょうわ、そっちのはなしをしたいなとおもって。 まいばんアニメをみているんですよ、さいきん。べつにかくすことでもないのでいいますけど。でね、あるエピソードをみていたとき、「なきそうになった」じゃなくて、「なかされた」という感覚をもった瞬間があって。それが、えーと、すごく小さいことなんですけど、ずっと気になっていて。 具体的にいうと、キャラクターがなくよりまえに、おんがくがなったんですよね。おんがくがなって、それからキャラクターの表情がかわって、それからなみだが流れて、それからぼくがなにかを感じた。この「じゅんばん」が気になった。ぼくがかんどうしたんじゃなくて、かんどうするようにみちびかれたんじゃないか——っていう、ちいさな違和感。おおきなはなしかどうかわからないですけど、きょうわそれをかんがえていきたいとおもいます。

question

で、さっきのじゅんばんをもうすこし丁寧にみてみると、アニメのなきシーンってだいたいこうなっているんですよね。まず、キャラクターの表情がかわる。つぎに、おんがくがはいる。それから、なみだが流れる。さいごに、みているひとがなにかを感じる。 でね、ここでぼくが気になるのは、おんがくのタイミングなんですよ。おんがくわ、「なみだにばんそうする」のではなくて、「なみだのまえにはいる」んです。だとすると、おんがくわ感情のげっかではなくて、感情の「きっかけ」として機能している。 [pause] ふつう、ぼくたちわ感情を「じぶんのうちがわから自然にあふれるもの」だとおもっていますよね。でも実際には、なくためには「ここでないていい」という、そとからのきょかが必要なんじゃないかとおもっていて。おんがくわ、その「きょかしょう」として機能している。えーと、えいがかんのくらやみ、まわりがないているけはい——それもまた、きょかをだしている。「ここわ、ないていい場所です」っていう信号を、かんきょうごと出している。 これ、アニメだけのはなしじゃないなとおもったのが、しょくばのはなしで。むかしはたらいていたじむしょで、かいぎのなかで誰かがさきにおこりだしたとき、ぼくもなんか「あ、おこっていい場なんだ」って気づいて、じぶんのなかで感情がかたちになりはじめた経験があって。あれ、さきにそとがわで感情が「かいきん」されなかったら、ぼくわおそらくなにも感じないまま会議をおわっていたとおもうんですよね。 つまり、感情わじぶんのものだとおもっているけど、「かんじていい」とゆるされた瞬間にはじめてかたちになる、という構造があるんじゃないか。 [pause] そうなってくると、「かんどうのじゅんど」というものがどこにあるのかが、ちょっとあやしくなる。なみだわほんもの。でも、そのなきかたをせっけいしたのわだれか。べんりなんですよ、「しぜんな感動」という言いかた。それをいっているがわにとって。けっきょくなにがしぜんで、なにがそうでないかを判断するのも、ぼくたちじしんなわけですから。あなたも、なにかで「なかされた」と感じた経験、ないですか。

mail

きょうわ、おたよりがないんですよ。正直にいいます。まあ、ないときわない。 でね、おたよりがないときに、まいかいおもうことがあって。「だれかにといをたててもらう」ことで、はじめてじぶんのかんがえが整理されることがある、っていうこと。リスナーのかたからの問いがきて、それにこたえようとしているうちに、「あ、これがぼくのいけんか」とわかる瞬間がある。 これ、きょうのはなしとおなじ構造だなとおもって。 [pause] そとがわからといをあたえられて、はじめてじぶんのなかに「こたえ」があったことに気づく。感情も、しこうも、おそらくおなじで、「そとからのきっかけ」をまっている。ぼくじしん、このラジオでしゃべるためにかんがえてみて、はじめて「あ、ぼくわこういうことをおもっていたのか」とわかることが、えーと、かなりおおい。しゃべるまえに整理されていたわけじゃなくて、しゃべりながらはじめてかたちになる。 それわ、しゅたいせいがないということなのか。それとも、にんげんってそもそもそういう構造なのか。じぶんのそとがわに「きっかけ」があってはじめて、じぶんのうちがわが見える——それってべつに、よわいことじゃないとおもうんですよ、ぼくわ。ただ、「じぶんのかんじょうわじぶんのもの」という、あのじしんまんまんな言いかたわ、すこし点検したほうがいいとはおもう。あなたわ、どうおもいますか。

closing

きょうのまとめを一言でいうと、かんじょうわうちがわからあふれるのではなくて、そとがわから「あふれていい」といわれてはじめてあふれる。そういう構造があるかもしれない、ということ。だとすれば、「ほんとうにじぶんが感じたかんじょう」という言いかたわ、すこし点検が必要かもしれない。 それが「だから感動わにせものだ」ということではなくて、えーと、ぼくがきになるのわ「せっけいされたとわしらずにうごかされていることへのじかく」をもつかどうか、というはなしで。それだけです。 つぎかいへのといをのこしておきます。さいごになきをしたとき、おんがくがなっていたか。えいがのはなしでも、げんじつのはなしでも。たとえば、だれかのおそうしきで、BGMがかかっていたか。ひとにわかれをつげるとき、まわりがすでになきはじめていたか。そのとき、じぶんわどのじゅんばんでなきましたか。 ふかよるの、それでいいんじゃないか。おやすみなさい。

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