
論語と算盤を読み解く
RIO
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ちょっと今日、収録前に近所の古本屋に寄ってきたんですけど、えーと、棚をぼーっと見てたら渋沢栄一の関連本が三冊並んでて、で、そのうちの一冊が日焼けして背表紙の文字がほぼ読めなくなってたんですよね。まあそれ自体はどうでもいい話なんですけど、なんかその「読めなくなってる」感じが、今日の話にわりと合ってるなと思って。今日は『論語と算盤』の中の『算盤と権利』という章を取り上げます。渋沢がこの章で言っていること自体は、それほど難解じゃない。「競争」を二種類に分けて、片方はいい、片方は良くない、という話なんですけど、その切り分けの根拠がどこにあるのか、そこが実はすごく面白くて、今日はそこを丁寧に見ていこうと思います。
まず原文の骨格から整理します。渋沢の言う「善競争」は、早起きして工夫して勉強して、自分を鍛えた結果として他者を上回る、という競争です。自分のリソースを投入して、自分を磨いて勝ちに行く。一方「悪競争」は、他者がすでに成功しているものを真似て、その権利や成果を侵害する競争を指している。で、渋沢はこの悪競争について、短期的には利を得ることがあっても、最終的には自他を損ない、国家の品位まで傷つけると、かなり強い言葉で言い切っています。そして「商工業者が道徳観を共有していれば、日常の良心に従うだけで善悪の境界はわかる」というのが彼の立場です。[pause] で、ここをもう少し深く読むと、渋沢が問題にしているのは単なる法律違反じゃないんですね。「他者がリスクを取って切り開いたものに、あとから乗っかる」という行為の構造そのものを指している。つまり悪競争の本質は、参入コストのただ乗りなんですよ。リスクと試行錯誤を誰かが全部負担して、成功の形だけを複製する、その動きを問題にしている。これはぼくの解釈ですけど、渋沢が「法的にどうか」じゃなくて「内側の問い」に論点を置いているのは、意図的だと思っています。さて、この構造を現代に引き直した時に何が起きているか、ということなんですけど、よく見られるのは「善競争の言語を使った悪競争の正当化」です。たとえば、あるカテゴリで先行者が何年もかけて試行錯誤して市場を作り上げた後に、資本力のある後発が「競争原理は健全だ」「市場は開かれているべきだ」という言葉を使いながら、先行者の設計をほぼそのまま踏襲して参入するケースを想像してみてください。後発側は「自分たちは努力して入ってきた」と言える。法的な違反もない。でも渋沢の問いに引き当てると、「あなたは自分でリスクを取ったのか、それとも他者のリスクに乗っただけか」という話になる。「競争」「オープン」「市場原理」という言葉は、善競争を語る語彙です。でもそれが、悪競争を隠す外皮として機能しやすい構造が現代にはある、とぼくは見ています。それ、本当ですか、と自分に聞ける人がどれだけいるか、という話でもある。[pause] もう一点、渋沢が「業界内で道徳観を共有すれば良心だけで判断できる」と言っている部分について。これ、ある意味で業界内の共同体規範を競争のルールとして期待している設計なんですよね。美しく聞こえるんですけど、前提が崩れやすい。業界参入者が増えるほど、共有されていた規範は薄まっていく。渋沢がそこまで見越していたかどうかは確認できないですし、ぼくが確認したわけでもない。ただ「道徳の共有」を前提にする設計は、共有が成立しない場面では機能しないという構造的な弱点が内包されている、というのは言えると思う。これは渋沢を批判しているんじゃなくて、設計として見た時にそういう性質がある、ということです。
最後に問いだけ置いて終わりにします。あなたが「自分は善競争をしている」と思っている時、その根拠はどっちですか。「自分は努力した」という事実か、それとも「他者のリスクには乗っていない」という確認か。この二つ、似てるようで全然違う。前者は自分の行動の話で、後者は他者との関係の話だから。渋沢の言う「良心に従えばわかる」は、楽観的に聞こえるかもしれないけど、そもそも自分に問う習慣がなければ、良心も動かない。道具は使わないと錆びる、というのと同じで。次回も『論語と算盤』から一章を取り上げます。番組は「論語と算盤を読み解く」でした。
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