
論語と算盤を読み解く
RIO
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えーと、今日ね、収録の前にちょっとだけ本棚を整理していたんですよ。で、なんか積んである本を動かすたびに、読んだ気になっていた本が出てきて、あ、これぜんぜん読んでなかったなって気づく、あの感じ、あなたにもないですか。読んだこと自体が目的になっていて、中身はどこにもない、みたいな。まあそれが今日の話にちょうど繋がるんですよね。今日扱うのは『論語と算盤』の中の「理想と迷信」という章で、タイトルの対比がそのままこの章の骨格になっています。「理想」と「迷信」、この二つをどう渋沢が置いているか。で、その中心にあるのが「新しくあり続けること」という問いで、これがなかなかクセがある。渋沢が言う「新しくあれ」は、ぼくが最初に読んだ時のイメージとかなりずれていました。その話を今日はしていきます。
まず原文の話から置きます。「苟日新、日日新、又日新」、これは渋沢が引いている殷の湯王の言葉で、読み方は「いやしくも日に新たに、日々に新たに、また日に新たなり」——えーと、大事なのはここの構造で、「まだ新しくなれていない人が新しくなれ」という話ではないんです。すでに新しくなっている、その状態のまま、さらに新しくし続けよ、という累積と継続の命令形なんですよね。これ、最初に知った時にちょっと驚いて、あ、そういう話か、と思ったんですが。渋沢の問題意識はそこから来ていて、変化を怠った組織や社会が形式主義に陥る、という観察がこの章の出発点になっています。[pause] で、渋沢が具体的にどこが腐敗しているかを三つ挙げていて、まず政治・行政の形式主義、手続きが目的になって実態が空洞化するパターン。次に宗教の形式化、民衆を実際には導けなくなっている。そして三つ目が、商売と道徳の分離という「誤った観念」——渋沢にとってはこれが核心で、幕府が衰退した原因の一つとしてこの形式主義を名指ししています。一つの政権の話として書かれているんですが、構造としては今にも転用できる話で、そこがぼくにはおもしろいと思っています。渋沢の主張を正確に言うと、「利殖と仁義は本来一致する」ということで、稼ぐことは道徳的に問題がある、という当時の士農工商的な価値観の残滓を批判しているわけです。一致するはずのものが、観念のせいで引き離されてきた、という構造的な指摘ですね。[pause] ここからがぼくの見立てなんですが、「日新」という言葉は現代では「イノベーション」とか「アップデート」の文脈で引用されることが多い。でも渋沢の文脈でそれを読むと、かなりずれがある。渋沢が「新しくあれ」と言っている対象は、技術や手法ではなくて、観念、心構えなんです。特に「商売と道徳は相容れない」という固定観念そのものを更新せよ、という話をしている。つまり現代の「日新」の使われ方のパターンを見ると、ツールや制度をアップデートしながら、根底の観念——たとえば「利益追求とCSRは別物だ」とか「稼ぐことへの漠然とした後ろめたさ」——はそのまま温存している、というケースがある。形式を変えながら観念を変えない、これは渋沢が批判した「形式主義」と構造的にまったく同じなんですよね。具体的に言うと、社内にDX推進の部門を作って、ツールを導入して、報告書の様式を変えた、でも意思決定の構造も評価の基準も変わっていない、という状態——これはぼくの見立てでは、かなりの数の組織で今も起きているパターンだと思っています。渋沢が言いたかったのは、観念を更新しない限り、形を変えても腐敗は別の形で再生する、ということで、それが「日新」の本来の射程だとぼくは読んでいます。
で、締めにあなたに一つ問いを置いていきたくて。あなたが「変えた」と思っているものは、ツールですか、手続きですか、それとも観念そのものを更新しましたか。「自分は新しくなった」という感覚が自分の中にあるとして——それ、本当ですか。渋沢が問い続けたのはそこで、形の更新と観念の更新を、ぼくたちは案外ごっちゃにしている、とぼくは思っています。次回は「理想と迷信」章のもう一つの論点に入っていくつもりです。今日はここまで。番組「論語と算盤を読み解く」でした。
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