
論語と算盤を読み解く
RIO
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今日ね、収録の前にちょっと近所を歩いてきたんですけど、まあ暑いのか涼しいのかよくわからない天気で、えーと、季節ってこういうふうに移り変わるんだなあと、なんとなく思いながら戻ってきました。あと、道中で立て看板に書いてあった標語が、妙に頭に残っていて。「昔ながらの誠実さを大切に」って書いてあったんですよね。それが今日の話とちょうど重なってしまって、まあ偶然なんですけど。[pause] 今夜は『論語と算盤』の「理想と迷信」章を読んでいきます。理想と迷信、この二つを並べたタイトルの間に、渋沢が何を置いているのか、そこが今日のテーマです。渋沢がこの章で問うているのは、道徳は時代とともに更新されるべきか、という問いで、これ、答えを先に言うつもりはないです。問いをここに置いたまま、読み解きへ行きましょう。
まず、渋沢がこの章で言っていることの骨格を確認しておきます。仁義とか誠実さとか、そういった根本道徳というのは、科学のように段階的に進歩するものではない、というのが渋沢の立場で、科学は古い理論を新しい理論で上書きできる、ニュートン力学の上にアインシュタインが来る、みたいな構造が成立するけれど、道徳の根本はそういう「上書き」の対象じゃない、と言っているんですね。ぼくはここ、最初に読んだとき、渋沢は変化を嫌っているのかなと受け取ったんですが、もう一段読むと、そうじゃなかった。[pause] 渋沢はこの章の中で、郭巨という人物の話と、王祥という人物の話を引いています。郭巨は、親を養うために食べ物が足りなくなるからと、自分の子どもを地面に埋めようとした、という話で、王祥は、冬の氷の上で裸になって体温で氷を溶かし、親のために鯉を捕ろうとした、という話です。どちらも「親への孝行」の逸話として古くから語られてきたものですが、渋沢はこれを美談として復活させようとしているわけじゃない、むしろ渋沢が使っているのは、この二つの逸話を「形式」と「本質」を切り分けるための素材として、なんですよね。郭巨の行為は現代では到底受け入れられないし、渋沢もそれを否定していない。彼が言いたいのは、行為の評価は時代によって変わる、しかし「親を大切にしたい」という動機の根にある仁義は変わらない、という構造の話です。それで、ぼくがこの章を読んで気になるのは、この論理が現代でどう使われているか、という部分で、えーと、具体的に言うと、会社とか業界の慣行を誰かが「これ、変えませんか」と言い出したとき、「いや、誠実さとか義理というのは昔から大事にされてきたものだから」という返し方をされる場面があるじゃないですか。あなたも一度くらい、そういうやりとりを見ていないですか。このとき起きていることを分解すると、「誠実さ・義理」という本質の話と、「その具体的な慣行や形式」の話が、意図的に、あるいは無自覚に混ぜられているんですね。渋沢がせっかく切り分けた「形式」と「本質」を、都合よく溶かし合わせて、「本質は変わらない、だから形式も変えるな」という論理に使っている。これは渋沢の論理の逆用で、そういう使われ方がされているとき、渋沢の本来の主張はむしろ反対のことを言っているんだ、というのがぼくの読みです。それで、もうひとつ、渋沢は物質文明がいくら激しく変化しても根本道徳は変わらないと言っているんですが、ぼくはこれを「変化を無視していい」という意味には取れなくて、むしろ「変化の激しい時代だからこそ、根本を錨として持つ必要がある」という読み方のほうが、この本全体の構造と合う気がしています。算盤、つまり実業の世界は常に変わっていく、新しい技術が来て、市場が動いて、慣行が変わる、その変化の中を走りながら、論語、つまり根本道徳を錨にする、という渋沢の設計と、ちょうど重なるんですよね。ただ、「本質は不変」と「形式は可変」を同時に持って動くというのは、思考として難しいです。人は、どちらか片方に引っ張られやすい。本質も形式も変えるなと固まるか、本質ごと全部アップデートしていいと思うか、そのどちらかに流れやすい。それ、本当ですか、と問い返す余地は、常にある。
「本質は変わらない」という言葉を、あなたが最後に口にしたのはいつでしょう。そのとき、形式と本質を本当に切り分けていたか、それとも、どちらかを守るために混ぜていたか。どちらが正しいとは言いません。ただ、その区別をどこでしていたか、ちょっとだけ思い返してみてほしいです。次回は「論語と算盤」の別の章へ移ります。今夜は以上です。「論語と算盤を読み解く」でした。
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