
論語と算盤を読み解く
RIO
TAP TO PLAY
このエピソードをシェア
えーと、今日ね、スタジオ入る前に、近所の古本屋でちょっと立ち読みしてたんですよ。棚の前に20分くらい立ってたら、店主の人に「何か探してますか」って声かけられて、まあ探してはいないんですけど、でもその一言で、ぼくは何かを待ってたのかもしれないなって、なんとなく思って。[pause] で、今日の話に繋がるんですが、今日は『論語と算盤』の「教育と情誼」という章から一節を読み解きます。テーマは「師弟関係」、それとその関係の中で罪はどちらにあるか、という渋沢の問い立て——まずそこを入口に、一緒に考えてみたいと思います。
渋沢が「教育と情誼」の章で何を見ていたかというと、明治期の師弟関係が、まあ言ってしまえば寄席の客と演者みたいな関係になってきている、という状況で、弟子は師を消費するだけで、師は師で弟子に何かを渡そうとしていない、そういう一方通行の劣化を同時に見ている。渋沢の批判の矛先はね、まず師の側なんですよ。徳望がない、才能がない、学問も人格も不足している、という言い方をしている。でも同時に、弟子の側にも敬う心がない、従う姿勢がない、と言っている。つまり「どちらかが悪い」じゃなくて、両方同時に劣化しているという構造を見ている——それが渋沢の問い立ての特徴だと、ぼくは読んでいます。[pause] で、渋沢が具体的に挙げている歴史上の師弟のエピソードがあって、熊沢蕃山が中江藤樹に「子供のように」なって従った、という話と、新井白石が木下順庵に終身服従した、という話が出てくる。これをね、ぼくが一般的に読まれる感じで言えば、「師弟の美しい関係の例」として紹介されている、と解釈しやすい。でも着目すべきはそこじゃなくて、なぜ熊沢蕃山が従ったか、なぜ新井白石が終身服従したか、という因果の方向だと思っていて、答えは「師の側に引力があったから弟子が動いた」ということなんですよね。蕃山が子供のように従ったのは、命令されたからじゃなくて、藤樹の人格に引き寄せられたからで、白石が終身服従したのは、強制されたからじゃなくて、順庵との長年の関係の中で自分が形成されていったからで、弟子の動きは常に師の引力の結果として描かれている。それがぼくの読み解きです。で、ここを踏まえると、この訓話の表面的な読まれ方——「師弟関係は大事だ」「敬う心を持て」という教訓——はちょっと重心がずれていると、ぼくは思っていて、渋沢の論旨の本当の重心は「師の側の責任」にある。弟子が浅薄なのは、まず師が浅薄だからだ、という順序で書いているんですよ。で、これが現代でどう骨抜きになるかというと、「最近の若者は師を敬わない」という嘆きとして語られるとき、師の側の吟味がまるっと抜け落ちる。弟子の態度の悪さを嘆く言説が、師自身の省察を免責する装置になっている——それ、本当ですか、って渋沢なら言うんじゃないかと。渋沢は「師たる者が自ら省察し、真摯な心掛けを持てば少なくとも弊害を防げる」と書いていて、これは弟子への要求じゃなくて、教育に携わる者への自戒の言葉として設計されている。[pause] 現代の話に引きつけると、組織の中で「部下が育たない」と言われるとき、議論の矛先が部下の意欲とか、世代の気質とか、そっちに向かいがちな場面って、あなたも見たことあると思うんですけど、ぼくが実際に複数の現場を歩いてきた中で感じるのは、上司や先輩の側が「自分を見せていない」「失敗を語らない」「成果だけを要求して過程を共にしていない」という状況が先にある、というケースが少なくないということで——これはあくまでぼくの観察の範囲での見立てですが、引力のない師が弟子の浅薄さを嘆いている、という構造になっている。渋沢の言葉で言えば、「其罪果して孰れに在りや」——その罪は果たしていずれにあるか——という問いは、まず自分に向けて発するものとして設計されている、とぼくは読んでいます。
渋沢の「其罪果して孰れに在りや」という問い立ては、罪の所在を裁定するためのものじゃなくて、自己省察を促す構造として書かれている——そう読んだ方が、この言葉の刃がちゃんと届くと、ぼくは思っています。あなたが今、誰かを育てる立場にあるとしたら、自分の側の「引力」を最後に点検したのはいつだったか——ちょっと、そこだけ問いとして置かせてください。次回も『論語と算盤』の別の一節を読み解きます。番組は「論語と算盤を読み解く」でした。
← PREV
ARCHIVE
論語と算盤を読み解く の他のエピソード