
#115 人力車が街を変える?
AIRWAVE GYODA
TAP TO PLAY
このエピソードをシェア
乗ったことはないんですけど、子どもの頃ってああいう街並みが「ふつうの景色」すぎて全然見えてなかったんですよね——今のほうが、あ、これ作画で描かれる街だ、ってわかる。
子どもには「ふつう」で、よそから来た人には「作画」——そのギャップを行田もたぶん意識してて、花手水と人力車を組み合わせることで「見せ方」を整えてる、って感じがぼくはしてる。
花手水って、神社の手水舎——あの「水が出てるとこ」って子どもの頃は通過点でしかなかったのに、花を浮かべることで「ここを見てください」って矢印が立った感じ。
その「矢印」が、十一月七日・十二月五日の二日間と事前予約という仕組みで「ここしかない」に変わってる——希少性が見せ方の最後の一押しになってる気がする。
子どもの頃の祭りって「気づいたら混ざってた」だったのに、今は予約ページを開いて枠を取らないと入れない——それが地元民としてちょっと「お客さんとして来てね」って言われてる感じがして、複雑なんですよね。
その複雑さ、わかるな——予約制が「外の人を迎える仕組み」だとしたら、地元への還元は経済じゃなくて「自分の街が誰かに選ばれてる」という感覚なのかも、ってぼくは見てる。
正直に言うと、わたしは多分開かないかも——「地元だからいつでも行ける」って思ってる間に気づいたら終わってる、がいちばん怖い気がする。
逆に言うと、予約制って「今日じゃなくていい」を封じる仕組みだから、地元民にこそ刺さるかもしれない。
十一月七日……スマホ開いて、枠あったら取るかもしれない、「かも」ですけど。
「かも」はほぼ「行かない」の予感がするけど——「いつでも行ける」って感覚は錯覚で、実は期限があるのは観光客も地元民も同じなんだよな。
……取ります、今夜。
急に行動力出たな——でも、人力車って「運ばれながら見る」から、歩きじゃ素通りしてた路地が急に「絵」になる体験だと思う。
蔵の壁と石畳が視界に収まる瞬間って、構図が勝手に決まりそうで——でも乗り終わって何かが変わるかどうかは、正直わからないんですよね。
変わるかどうかより、「速度が変わる」だけで街の解像度が上がる——人力車はたぶんそういう装置だとぼくは見てる。
遠足の翌日に教室の天井を見上げたとき、いつもと同じなのに妙に鮮やかだった——あれと同じで、たぶん一週間もしたら戻る。
だから二日間限定なんだと思う——戻る前に、解像度が上がったままの街を写真や記憶に「固定」できるのが、人力車と花手水を組み合わせた設計の核心じゃないかな。
写真より「乗ったことある」って事実だけ手元に残れば十分な気がして——記録しなかった体験のほうが、なぜか長く残ってる。
← PREV
ARCHIVE
AIRWAVE GYODA の他のエピソード