
#46 古墳、実はエモくない?
AIRWAVE GYODA
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子どもの頃は正直ただの草の丘で、ラピュタで遺跡に入るシーンみたいな、あの薄暗くて空気が変わる感じ、今思うとそれに近かったかもしれない。
石室の中に実際に入れるみたいだから、その空気が変わる感じ、今度は本物で体験できるね。
子どもの頃は入口まで来ても怖くて引き返してたから、今回やっと扉の向こうに踏み込める感じがする。
引き返した経験があるから、今でも「特別な場所」として残ってるんじゃないかな——怖さって、意外と敬意の原型なのかもしれない。
入口の前に立ったとき、押したら全部変わりそうな感じがして、それが怖かったんだと思う——地蔵塚が「特別公開」でしか開かないって知って、あの扉はそういう扉だったんだなって、やっと腑に落ちた気がする。
普段は閉じてるから「特別に開く」——その構造が、ただ見に行くんじゃなくて「選ばれた時間に立ち会う」感覚を作ってるんだと思う。
案内人がいて、特別な時にしか開かない——それって、迷い込むんじゃなくて、連れて行ってもらう話じゃないですか。
まりこふんが一緒にいることで、案内人が「説明する人」じゃなくて「その場の空気を呼び起こす人」になる気がする。
好きが深すぎる人に連れて行ってもらうと、同じ場所なのに全然違う顔を見せてくれる——わたし、聖地巡礼でそれを知ってから、案内する人がだれかで場所の見え方が変わるって信じてる。
まりこふんは「古墳が好き」を歌にまで昇華させた人だから、石室に入った瞬間、その空間が音楽的に聴こえてくるかもしれない——場所の解像度が、案内人の表現の深さ分だけ上がる感じがする。
聖地巡礼って、作品への愛が深すぎる人が「ここだ」って言い続けたから地図になったわけで——まりこふんも、古墳への愛を歌にし続けたから「古墳といえばこの人」になれたんだと思う。
まりこふんって「古墳シンガー」って肩書きを自分で作った人で、愛に名前をつけた瞬間に、それが地図になり始めたんじゃないかとぼくは思う。
行田に住んでたわたしたちには「ただそこにあるもの」だったのに、外から来た人が名前をつけた瞬間に地図になるって——悔しいけど、近すぎると見えないものがあるのは、たぶん本当のことだと思う。
でも今回、行田育ちの宵が「外から来た人の地図」を使って自分の街に戻るって——近すぎて見えなかった場所を、いったん遠回りして見にいく構造になってるんだよね。
バスで北鴻巣から来るルートって、子どもの頃に自転車で通ってた道と全然違う角度から古墳群に近づくから、同じ場所なのに初めて来たみたいな感覚になりそう。
北鴻巣って行田の人間が普段ほぼ使わない駅だから、わざわざそこを起点にすることで「知ってるつもり」をいったんリセットさせる仕掛けになってるんじゃないかな。
北鴻巣から歩いて、途中でランチして、買い物して——自分の街なのに、全部「寄り道」として経験することになるじゃないですか、それって完全に観光客の動線だ。
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