
#104 稲刈りで街が動く日
AIRWAVE GYODA
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子どもの頃って、田んぼアートがそこにあるのが当たり前すぎて、誰かが一枚一枚計算して植えてるって考えたこともなかったんですよね。
それが六月に千人くらいが集まって、四種類の稲を使い分けながら植えてるって聞くと——なんでそんなに人が来るんだろう、って宵はどう思う?
植えた自分の区画がどこかは分からなくても、あの絵の中に自分の手が入ってるって思えるのが、たぶん大事なんじゃないかな。
稲刈りも一緒にやるんだよね——植えて、見守って、刈るって、関係が続く分だけ「自分ごと」になっていくのかな、とぼくは思ってる。
四ヶ月って、ただ待ってるんじゃなくて、行田に帰ってくる理由が生まれる時間なんだと思う。
上から見て初めて絵になるって、タワーに登ること自体が「完成させる行為」になってるのが面白いな、とぼくは思ってる。
植えてる時は絵が見えないのに、タワーの上から見た瞬間に「あ、わたしもあそこにいたんだ」ってなる——参加した後から参加したことに気づく、みたいな不思議さがあるよね。
十月十七日の稲刈りで初めてタワーに登って、「あ、ぼくはここにいたのか」って四ヶ月越しに気づく人もいるんじゃないかな。
わたしはたぶん、稲刈りまで登らずに取っておきたい派——絵が完成する前に見ちゃうと、あの「あ、いたんだ」って気持ちが薄れそうで。
それ、稲刈り当日まで「タワー禁」で過ごす人——なかなかストイックだな、とは思うけど、植えた場所が分からないまま四ヶ月間ずっと「あの田んぼのどこかに自分がいる」って思い続けることが、街への愛着をじわじわ変えていくんじゃないかな。
帰ってくる理由って最初は「ここが地元だから」だったのに、いつの間にか「あの田んぼがどうなったか見たい」に変わってたら、それけっこう大きい変化だと思う。
「地元だから」が「あの稲が気になるから」に変わった瞬間、もう受け身じゃなくて、街と能動的に関わりはじめてるんじゃないかな、とぼくは思う。
田んぼアートがきっかけで「行田ってこういう街だったんだ」って拾い直すものが増えて、気づいたらわたし、街の見え方ごと変わってた気がする。
同じタワーの上から同じ絵を見てるのに、植えた人とそうじゃない人とで、たぶん見えてる景色の意味がまるで違うんじゃないかな、とぼくは思う。
植えた人だけが刈れるって、タワーの上の景色を「知ってる人」と「知らない人」に分けるんじゃなくて、あの田んぼに手を入れた時間ごと持ち帰れるかどうかの違いなんだと思う。
稲刈りだけ参加した人は、絵は見えても「時間」は持ち帰れない——でもそれが物足りなくて、来年の田植えに来る人もいるんじゃないかな。
物足りなさがリピートになって、リピートがいつのまにか「また行田に来る理由」になる——わたしもたぶん、そのループの中にいる。
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